ブックカフェ「シズカ」の空気は午後に入っても澱むことなく、カウンターの内側で豆を挽く音が、その澄んだ静寂を縁取っていた。客は、図書館の専門司書である真木まき、ただ一人だった。
彼女は、先ほどオーナーの氷上静が棚に差したばかりの、外国の絵本を熱心にめくっている。
「まきさん、相変わらず絵本がお好きなようですね。その絵本、本日入荷したものなんですよ」
豆を挽き終えた静が、絵本の世界に入り込む準備が整った風のまきに声をかける。
「とっても、絵がステキ」
まきは、いつものように人懐っこい笑顔で顔を上げた。
「くまさんがマフラーを編むんですけど、毛糸が足りなくなっちゃうお話なんですねえ」
静は、沸かした湯をゆっくりとドリッパーに注ぎながら、彼女の様子を観照する。
真木まき――穏やかで、常に微笑みを絶やさず、その思考はいつもメルヘンのヴェールに包まれている。彼女が児童文学に惹かれる理由は、分析するまでもなく明らかだ。
「絵本って、いわば『制御された世界』への避難ですね」
湯が粉を含み、ぷくりと膨らむ。芳香が立ち上った。
「まきさんのような方が児童文学に惹かれるのは、現実という制御不能なカオスに対し、物語という秩序だった『保護区』を無意識に求めていることの表れなのでしょう。作者によってあらかじめコントロールされた運命の中で、キャラクターは安心してその役割を演じることができる
完璧な定義のはずだった。
だが、まきは、絵本から目を離し、静をまっすぐに見返した。表情は、あのニコニコとした笑顔のままだ。
「うーん、保護区? ですか……。私は、そういう風には、あまり」
まきの言葉に、湯を注ぐ静の手が止まる。
「……違いますか?」
「なんていうか、このくまさん、毛糸が足りなくなって、すごく困るんです。でも、お友達のうさぎさんが、自分の古いセーターをほどいて、毛糸を分けてあげる。くまさんは『そんなことできないよ』って言うんですけど、うさぎさんは『だって、あなたが困っているからよ』って」
「……なるほど。それは、作者という運命に定められた『友人』という役割をうさぎが遂行するプロセスですね。それもまた、制御された――」
「私、ストア派の考え方って、ちょっと苦手なんです」
静のドリップする手が、一瞬、空中で停止した。
(今、この人、「ストア派」と言った?)
「……ストア派、ですか」
「はい」
まきさんは、ペルソナを付け直すなどという意識的な操作とは無縁の様子で、再び絵本に目を落とした。独り言のように、その声は続く。
「世界はもう決まっていて、私たちはそれに従うしかない、みたいな。運命を受け入れなさい、っていう。静さんのさっきのお話は、なんだか、そっちに聞こえました。この絵本の世界にしても、作者の運命に『制御』されてる、って」
静の分析者の仮面に、わずかだがひびが入った。完全に手が止まる。驚きだった。予期せぬ領域から、自分の土俵の言葉で切り返されたことへの、戸惑いも。
「ストア派でないなら……」
静の声は、もはや批評家ではなく、相手の答えを待つだけの個人のものに変わる。
「あ、私はエピクロス派……そっちのほうが好きですね」
まきは、こともなげに言った。
「……なぜです?」
静は、純粋な好奇心で尋ねていた。
「だって……」まきは、嬉しそうに絵本のうさぎの挿絵を指差した。「このうさぎさん、運命とか大きな理屈とか関係なく、ただ『くまさんが困ってるのが不快だから』っていう、自分の心のアタラクシア(平穏)のために、行動してるだけなんですよ。世界を変えようとか、運命に抗おうとかじゃなくて、自分の手の届く範囲の、小さな不快を取り除いて、楽しく暮らしたい。この絵本は、そういうお話なんです。制御、とかじゃなくて」
静は、ゆっくりとドリップを再開した。 思考が、追いつかない。 自分の構築した「定義」が、メルヘンという柔らかな衣をまとった「アタラクシアの実践」という、別の哲学によって、こうも鮮やかに切り返されるとは。
動揺は、やがて、目の前の人物への認識を根本から改めさせられる喜びとなり、知らず知らず、静の口元がわずかに緩んでいた。
「……なるほど。まきさん。あなたのその解釈は……非常に、興味深い」
「そうですか? えへへ」
まきは、ようやく絵本を閉じ、カップに注がれるコーヒーに目を向けた。
「あ、静さん、このコーヒー、とってもいい香りですね」
静は、自分が淹れている琥珀色の液体に視線を落とす。
「……ええ。今日は少し、焙煎を変えてみたんです」
(了)
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