「君は、その投票先に妥当な出典を付記できるのかしら?」
投票所へ向かう道すがら、氷上静は隣を歩く中野小春に問うた。手元のタブレットには各候補者の政策解剖データが並んでいる。静にとって選挙とは、論理の整合性を確認する厳格な儀式だ。
「……うーん。風の音がね、その人の名前を呼ぶときに優しかったから」
小春はいつものように、輪郭のぼやけた返事をする。静はこめかみを押さえた。論理の通じない天敵に、自身の理性がきしむ音がする。
公民館の投票箱の前で、小春は祈るように紙を落とした。その指先は、ひび割れた世界を繋ぎ合わせる「金継ぎ」の所作そのものだった。彼女は、この歪な社会すらも、善悪の判断なく「器」として受け入れようとしているのだ。
静は、自身の緻密な計算に基づいた一票を投じながら、猛烈な嫉妬に駆られた。
(私の知らない一票を、小春が持っている)
その矛盾に苛立ちながらも、静は決意する。この底の知れない女の「一票」を、一生かけて解剖し、独占※し続けなければならない、と。
(幕)
作・千早亭小倉
※:独占とは、理性の信奉者である氷上静が、唯一定義不能な中野小春という「謎」を、自分専用の書物として解剖し続けたいということ。

氷上静|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:氷上静(ひかみ しずか)年齢・性別:35歳・女性肩書:ブックカフェ『シズカ』店主/私立ここあん大学哲学科講師(休職中)家族・パートナー:母・氷上冬子、パートナー・中野小春湖畔に佇むブックカフェ『シズカ』を営む女性。「氷山女」と称される…

中野小春|箱庭ここあん村の住人紹介
氏名:中野小春(なかの こはる)年齢・性別:35歳・女性肩書:ブックカフェ『シズカ』共同オーナー/元編集者氷上静と共にブックカフェ『シズカ』を営む共同オーナー。いつも穏やかな物腰と柔らかな笑顔を絶やさず、訪れる客の心を和ませる、カフェの「顔…


