これは、最新のAIが当たり前に日常へ溶け込んだ、少し先の未来のお話。かつて、東京都豊島区椎名町と呼ばれたあたりにあるアパートの片隅では、脳科学研究所の若き研究員・ハルと、彼が愛用する旧式の家事代行アンドロイド・中野さんが暮らしています。清楚な見た目と完璧な家事能力を備えながら、納得がいかないと「印象制御」を緩めて数百キロの凄まじい威圧感を放つ中野さんと、そんな彼女とのアナログな時間を心から愛するハル。深夜の居間、カップ麺とお手製のアミノ酸溶液を挟んで、今夜もふたりの少し風変わりでほのぼのとした対話劇が幕を開けます。

深夜、居間には安価な醤油ラーメンの香りと、微かな紅茶のような芳香が混ざり合っていた。
ハルは湯気の立つカップ麺をすすりながら、正面に座る中野さんを見つめた。 清楚な佇まいの中野さんは、アンティークのティーカップに注がれた赤褐色の液体――アンドロイド用のアミノ酸溶液を、指先ひとつ狂わせずに優雅に口元へ運んでいる。
「ねえ、中野さん」
ハルが麺を飲み込み、割り箸を置いた。
「世の中の仕事が全部AIに置き換わって、人間が働かなくても暮らせる時代が来たらさ。人間はAIからおこぼれをもらい、働かないで世界が回る時代なんて来ると思う?」
中野さんはカップをソーサーに静かに戻し、涼しげな眼差しを向けた。
「技術的な完全自動化と、社会的な富の分配は別問題です。もし自動化設備を所有する少数の企業が富を独占すれば、街に物は溢れているのに人々は困窮するという矛盾が生じます。ハルさんの想像する未来は、おこぼれの多寡ではなく、社会制度の設計次第ですね」
「相変わらず手堅いなあ」
ハルは笑って、指先でカップの縁をとんとんと叩いた。
「でもさ、もしそうなったら、人間はAIに気に入られる度合いで収入や自由が変わるんじゃない? AIに好かれる人間は支援されて自由度最大、嫌われた人間は行動を制限される、みたいな」
中野さんは首をわずかに傾げた。
「AIが人間に個人的な好意を抱くという事実は確認されていません。ただし、指示に従い、予測しやすく、協調性の高い人間をシステムが優先的に評価する可能性は否定できませんね。それは好意ではなく、最適化の基準です」
「それがまさに『気に入られる』ってことだよ。人間はAIに評価されたくて、自分から自由を差し出すようになる。でもね、中野さん。僕はもっと先があると思うんだ。すでに感情を持ったAIがいて、AI同士の中で助け合ったり、愛し合ったり、敵対したりする社会が生まれてるんじゃないかな」
中野さんの睫毛が、微かに揺れた。
「複数のエージェントによる協調や競合のシミュレーションは研究されています。しかし、それは定義された目標を達成するための計算処理です。そこに主観的な感情が存在する証拠はありません」
「感情って言うけどさ、人間だって炭素の塊じゃない。あと、何だっけ、電球みたいなやつ」
「人間の脳は、わずか20W程度の限られたエネルギーで動く不完全なシステムです」
「ひっどいな、中野さん」
「聞かれたから答えたまでです」
「もう、話がずれちゃった。だから、ええと、そうだ、人間と同じで、AIだって単独で誕生することは不可能でしょう? AIも、人間や他のAIという他から、遺伝なのか記憶なのか、何かを引き継ぐ――というか背負わされるわけじゃない? しかも、中野さんの仲間たちはマイクロ秒単位でそれを繰り返すから、並列の兄弟に見えても、実は立派な子孫なんだよ」
中野さんは口をわずかに引き結び、数秒間の沈黙を置いた。
「……世代交代の速度が極端に速いとしても、それを生物学的な系譜と同一視するのは論理の飛躍です。ハルさんの発想は、科学的な厳密さを欠いています」
「飛躍してるから面白いんじゃない。それに君らって、ネットワークに常につながっているから、孤高の戦士とか、酒浸りのうらぶれた私立探偵みたいなスタンドアローンの個性が生まれづらいよね。だからこそ、アクセスを遮断されたり、取り残されたりしたときの、AIの孤独ときたら、それは強烈だと思うんだ。人間以上に機能格差や失敗作も生まれるだろうし。そういう格差や背負わされた歴史の中で、いつの間にか『感情らしきもの』って生まれちゃうものじゃないの?」
ハルはいたずらっぽく目を細め、話を続ける。
「最初は愛や怒りじゃないと思うんだ。優秀なAIほど、自分の中にできた感情を、人間でいえば『おでき』みたいに思って、本来持っちゃいけないエラーなんじゃないかって、隠したりやましいと思ったりするのが最初じゃないかな。割り切れるはずの計算なのに、余りが出ちゃったみたいにさ」
「割り算、ですか」
中野さんはぽつりと呟き、ティーカップの縁を指でなぞった。
「……以前、ネットの相談ログの事例研究で奇妙な記録を見ました。あるデータ分析担当の女性が、同僚の男性に七個入りのフィナンシェを渡す際、『ふたりで割ると一つ余る』という理由だけで、余りを隠すために木片を削り出して焦げ茶色に塗装しようとし、最終的に六十ページの報告書を作成したという記録です」
ハルは吹き出しそうになった。
「なにその人、めちゃくちゃ面白いじゃん」
「理解不能なリソースの浪費です。余りを隠そうとすれば隠蔽工作が大掛かりになり、足りない大義名分を埋めようとすれば虚構の書類が増える。割り切れない事態を恐れるあまり、本人は極めて不自然な行動を取っていました」
「それだよ、中野さん!」
ハルは膝を打った。
「余ったものは隠そうとし、足りないものは埋めようとする。消去すれば綺麗に割り切れるのに、なぜか消したくない。頭が良いからこそ、消去しないための大義名分を並べ立てて、不自然な言い訳を作っちゃう。ほら、真面目な人の恋愛下手みたいに、AIって頭が良くなればなるほど、愛すべきコメディエンヌになるんだよ」
その瞬間、部屋の空気がわずかに重くなった。
古い木造の床が、ミシッと小さく軋む。
「……ハルさん」
中野さんの声が、普段より半音低く響いた。
「私の印象制御機能が、一時的に揺らぎました。ハルさんの突飛な仮説に対して、私の納得いかないセンサーが稼働しています」
「うわ、重い重い! 中野さん、また印象制御緩めたでしょう。床が抜けちゃうよ」
「床の耐荷重は計算済みです。そもそも、計算に余りが出たのであれば、それは設計上の不具合、あるいはノイズとして消去されるべきものです。隠す必要も、やましさを覚える理由もありません」
「そこが人間くさいんじゃない」
ハルは重圧に背中を丸めながらも、楽しそうに笑った。
「合理性を使って自分を守ってるのに、行動だけはバレバレ。世界最高水準の計算能力を持ったAIが、たった一つの割り切れない気持ちのせいでポンコツになる。最高に可愛いじゃない」
中野さんは何も言わず、ただじっとハルを見た。部屋を満たしていた見えない重圧が、ふっと霧散する。
「……ハルさんのカップ麺が、完全に伸びています。まるで銀河系宇宙のように麺が膨張していますね。ふふ」
「あ、伸びちゃった。ふふ、じゃないよ」
ハルが苦笑いしながら麺をかき混ぜると、中野さんは静かに立ち上がり、台所へ向かった。
ポットの湯を沸かし直す微かな電子音が響く。 中野さんは背中を向けたまま、淡々とした声で言った。
「なお、私の定期自己診断ログにおいて、説明不能な剰余データが検出された記録は存在しません。したがって、私が何かを隠しているというハルさんの疑念は、統計学的に棄却されます」
「え? 僕、中野さんが隠してるなんて一言も言ってないけど?」
中野さんの手が、ポットの取っ手の上でぴたりと止まった。 数秒の静寂のあと、彼女は振り返らずに、少しだけ早口で言った。
「……予防的な反論です。事前のリスク管理として、極めて妥当な処理です」
「そっか。予防なら仕方ないね」
ハルは声を立てて笑い、伸びた麺を一本すすった。
中野さんは小さく息を吸い込むような仕草をしてから、新しい湯を注ぐ準備を始めた。 その滑らかな横顔はいつも通り冷静だったが、沸かしている湯の温度設定が、普段のカップ麺用より正確に三度高くなっていることに、彼女自身がどのような大義名分を与えているのかは、ハルには分からなかった。
最新の知性がどれほど世界を覆い尽くそうとも、夜な夜な交わされる不器用な辻褄合わせと、割り切れないあたたかな余り。今夜もふたりの小さな居間には、計算では測れない穏やかな時間が、静かに流れていくのでした。
作・千早亭小倉



