第15話 18パーセントの奇跡

翌日の放課後、文芸部のドアを開ける僕の右手には、一晩かけて書き上げた『コンクリートの涙』の改稿原稿が握られていた。昨日までのそれとは、まるで密度が違う。一枚一枚の紙に、あの夜の湿った空気と、アスファルトの匂いが染み込んでいるような、そんな錯覚さえ覚えた。

部室には、すでに三人の先客が揃っていた。僕の主であり、支配者である黒崎部長。僕の対極であり、太陽である天野さん。そして、僕の知らない世界の法則を諳んじる、堂島。三者三様の視線が、僕が差し出した原稿の束に突き刺さる。

「……ほう。思考の便秘は、解消されたようだな」

黒崎部長は、さも当然といった顔で原稿を受け取ると、指先でその枚数を数え、一枚目から意外なほど丁寧に文字を追い始めた。彼女の目当ては間違いなく、クライマックスである「割れた卵」のシーンの描写だ。そこへ至るまでの展開を、彼女は一言半句も漏らさぬように確かめている。

部室が静まり返る。

天野さんは固唾を呑んで部長の表情を窺い、堂島は建築雑誌のページをめくる手を止めている。聞こえるのは、壁の時計の秒針が時を刻む音と、黒崎部長が紙をめくる、乾いた音だけだ。

やがて、彼女はぱさりと原稿を机に置いた。その表情からは、感情が読み取れない。

「……どう、でしたか」

僕の問いに、彼女はすぐには答えなかった。しばらく僕の顔をじっと見て、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。

「……ようやく、ただの現象を、物語へと昇華させる方法の入り口に立ったようだな、一樹。凡俗を卒業するには、まだ一万年早いが」

その言葉に、僕の隣で天野さんが「やった!」と小さな声を上げた。彼女は、僕が叱られなかったという事実だけで、心から喜んでくれているらしかった。彼女は、わくわくした様子で原稿を手に取る。

「貸して! 私も読む!」

彼女の大きな瞳が、僕の書いた文字の列をすごい速さで追っていく。そして、問題のシーンにたどり着いた時、彼女の動きが、ぴたりと止まった。 

雨粒がアスファルトを叩いていた。その無数の円が広がる中心で、一つの円だけが、いびつに、そして粘り気をもって、そこに留まっていた。街灯の光を鈍く反射する白身の海に、壊れずに浮かぶ黄身は、全てを見透かす無感情な瞳のようだった。それは、命だったものが、ただの物質へと変わる瞬間の、静かな記録だった。

「すごい……」

天野さんが、絞り出すような声で呟いた。

「キラキラしてないのに、この前のより、ずっと悲しい。胸が、ぎゅーっていうんじゃなくて、なんだか、冷たくなる感じ……」

彼女の感想は、僕が目指したかったもの、そのものだった。安堵の息を漏らす僕の耳に、全く予期せぬ方向から、静かな声が投げかけられた。

「面白い」

声の主は、堂島だった。彼は、いつの間にか僕の背後に立ち、天野さんが持つ原稿を覗き込んでいた。

「なにがだ、堂島」と、部長が問う。

「『壊れずに浮かぶ黄身』。この一点だ」

堂島は、僕の方に向き直ると、ガラス玉のような瞳で僕をまっすぐに見た。

「Lサイズの卵を高さ約1.5メートルからアスファルトに落下させた場合、卵黄膜が衝撃に耐え、破断しない確率は、約18パーセント。君は、その低確率の事象を、あたかも必然であるかのように描写した」

「え……」

「統計的リアリティを意図的に捻じ曲げることで、逆にその『瞳』の異常性を際立たせている。これは、偶然か? それとも、計算か、神崎一樹」

僕の背筋を、冷たいものが走った。

計算など、しているはずがない。僕はただ、あの夜に見た光景を、僕の脳が再構築したイメージを、書き写しただけだ。だが、この男の前では、僕の無意識さえもが、計算された意図として解剖されてしまう。

僕が答えに窮していると、黒崎部長が、パン、と手を叩いた。

「さて、バスケ部。この18パーセントの奇跡が生んだ絶望を、君のその能天気な鉛筆で描けるのか?」

その問いに、天野さんは、しかし、怯まなかった。彼女はまっすぐに部長の目を見ると、力強く頷いた。

「……うん。描ける、と思う」

彼女は、自分のスケッチブックの新しいページを開いた。そして、僕らが昨日見た光景を、彼女なりの解釈で、再び描き始めた。

数分後、彼女が差し出したスケッチに、僕らは息を呑んだ。

そこに描かれていたのは、主人公の顔ではなかった。

画面の下半分に、濡れたアスファルトに立つ、少年のスニーカーの先端が描かれている。そして、その少し先に、ぽつんと、あの割れた卵が、小さな瞳のようにこちらを見つめている。主人公の姿はほとんど描かれていないのに、そのどうしようもない孤独と絶望が、痛いほどに伝わってくる構図だった。

「……なるほどな」

堂島が、静かにつぶやいた。

「不要な情報を削ぎ落とし、描くべき対象を絞り込む。構図における情報の取捨選択は、合理的だ」

黒崎部長は、何も言わなかった。

ただ、僕の原稿と、天野さんのスケッチを、交互に、何度も見比べていた。やがて、彼女は諦めたように息を吐くと、僕らに背を向けて窓の外を見ながら、呟いた。

「……まあ、悪くない」

それは、僕の文章と、天野さんの絵が、初めて一つの「作品」として認められた瞬間だった。

文化祭に向けた、僕らの奇妙な創作活動は、今、確かに、一つの確かな形を成し遂げたのだ。

(第15話へ続く)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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