エレベーターホールの床に、乾いてひび割れた泥の染みが、所在なく広がっていた。どこかの階の子供が運んだ植木鉢からこぼれたものか、あるいは、もっと別の、緑野翠村長の知らない生活の痕跡か。天井の照明はいくつか間引かれ、ホール全体が夕暮れ時ほどの薄闇に沈んでいる。
その中を、様々な音が混濁しながら漂っていた。階上からかすかに聞こえる子供の甲高い声、どこかの部屋の扉が軋みながら閉まる音、そして、FMここあんのスタジオがある一階の奥から漏れてくる、控えめなベースの音。それら全てが、かつてこのタワーが持っていた静謐な清潔さとは無縁の、生々しい生活の響きだった。
「区長! ちょうどええところに!」
背後から浴びせられた大声に、翠は反射的に眉間を指で揉んだ。振り返るまでもない。克枯町商店街会長、郷田剛その人である。
「郷田さん。役場にご用なら、アポイントを取ってください。あと、私は区長ではなく、村長だといつもいつも……」
「固いこと言うなや!」
郷田は、持て余し気味の体躯を揺らしながら翠の隣に並ぶと、皺だらけの指で、案内板が剥がれたままになっている壁を指差した。
「見てみい、この有様を。三階のテナント、まだ空いとるやろ。あそこをな、ワシらに安く貸してくれんか。商店街の若いもんが、アートの拠点にしたい言うとるんや」
「……検討します」
「検討やない、実行や! 金ならクラウドファンディングで集める! ワシの銅像を建てるための貯金を切り崩したってええ!」
その、どこまで本気か分からない熱量に、翠は思わず口元を緩めた。現状のココアンタワーは「垂直のスラム」と揶揄されることもある。だが、この男のように、その瓦礫の中から新しい芽を見つけようとする人間もいる。その事実だけが、今の翠を支える細い柱の一つだった。
やがて到着したエレベーターの扉が開く。郷田に軽く会釈して乗り込むと、先客が一人、壁に背を預けるようにして立っていた。ここあん図書館総務課長の高島雅也だった。彼の視線は、翠の背後、郷田が去っていったホールの雑然とした光景に向けられていた。
「……区長」
扉が閉まり、無機質なモーター音だけが響く箱の中で、雅也が静かに口を開いた。翠は肩書を否定することもなく、話の続きを促した。
「郷田会長は何と? いや、それより今のホールですが、掲示物のフォーマットが統一されていません。各戸が私的に貼り出したと思われる紙も散見されます。あれでは美観を損ねるだけでなく、重要な区からのお知らせが埋もれてしまう。即刻、規則に則って撤去し、掲示板の管理規定を周知徹底すべきです」
正論だ、と翠は思う。彼の言うことは、一から十まで正しい。だが、その正しさは、今のこの村では眩しすぎた。
「高島さん。あなたの言う通りだわ。でも、まずはここはいまは『村』なの。その現実を受け止めないと」
翠は、エレベーターの階数表示が自分の執務室のある五階を示すのを見つめながら、さらに続けた。
「そして、今、このココアンタワーに必要なのは、完璧な規則よりも、泥の染みを『まあ、いいか』って思える、少しばかりの寛容さなのかもしれないわ」
雅也の眉間の皺が深くなった。彼は何も言わず、ただ固く唇を結んでいる。閉じかけた扉を日焼けした腕で制し、翠は「失礼」と雅也に言ってエレベーターを降りた。
執務室の窓から見下ろすここあん村は、パッチワークのようだった。再建された建物、更地のままの土地、そして、災害が生み出した、静かな湖。何もかもが不揃いで、未完成だ。それは、このココアンタワーとよく似ていた。
(そういえば、高島君は、エレベーターにどこから乗って、どこで降りるつもりなのかしら)
翠はその疑問をすぐに放り出した。今はどうでもいいことだ。
秩序も、美しさも、まだここにはない。あるのは、ただ、不格好で、泥臭くて、それでも生きている人々の、混沌とした営みだけである。今は、それでいい。いや、それがいいのだと、翠は自分に言い聞かせるように、深く息を吸い込んだ。
(了)
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