【登場人物】
向原 佐和(35):ドイツ文学の翻訳家。常に冷静で、完璧な言葉選びを好む。
菜箸 かな(34):フリーランスの翻訳家。しなやかな知性を持ち、物事をフラットに捉える。
【場面設定】
佐和のマンションのダイニング。テーブルの上には、ラベルの美しい赤ワインのボトルと、中ほどで折れてしまったコルク、そしてワインオープナーが置かれている。
佐和:この栓、途中で「断絶」したわ。私の手順に落度があったとは思えないけれど。
かな:あちゃ。見事に真ん中からいっちゃったね。変に綺麗な断面。
佐和:スクリューは垂直に立てたし、力も均等に分散させたはずよ。これは道具の不備か、あるいはこのコルクの性質そのものに問題があるわ。
かな:かなりの古酒だしね。きっとコルクも喉がからからで、ガラスに張り付いちゃってたんだよ。
佐和:保存状態の問題だと言いたいの? 私のセラーの湿度管理は、ドイツの図書館並みに厳格よ。
かな:まあまあ。理屈をこねても、残りの半分は頑固にそこに居座ってるわけで。
佐和:抜栓という行為が、これほど不完全な結末を迎えるなんて。文学的な敗北を感じるわ。
かな:大げさだなあ。ねえ、もうこれ、押し込んじゃえば。
佐和:押し込む。正気なの。瓶の中に木屑が散らばって、この繊細な香りが台無しになるわ。
かな:台無しにはならないよ。台所にある茶越しを使えば、物語は修正できる。
佐和:茶越し。そんな生活感の塊で、このボルドーを濾過するの?
かな:最善の訳語が見つからないときの、苦肉の策みたいなものだよ。ほら、そのお箸使って。
佐和:……この「押し込む」という行為の、野蛮な感触。指先にボトルの抵抗が伝わってきて、ひどく落ち着かないわ。
かな:ゆっくり、垂直にね。あ、今、落ちるよ。
(水族館の強化ガラスに魚が体当たりしたような鈍い音とともに、ワインが数滴、佐和の指に跳ねる)
佐和:……落ちたわ。私の指に、このワインの血のようなしずくが。
かな:いい音したね。ほら、コルクがぷかぷか浮いてる。なんだか、池に落ちた迷い犬みたい。
佐和:迷い犬。あなたはいつも、深刻な事態をそんなふうに脱臼させるのね。
かな:深刻じゃないもん。さあ、茶越しとデキャンタを持ってきて。二つの言語を混ぜ合わせるみたいに、慎重に注ごうよ。
(幕)
作・千早亭小倉
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