【登場人物】
青野 音:ジャズバー「Sound Blue」オーナー。店内の秩序と調和を愛するあまり、時に固定観念をすべて破壊した表現に憧れる。
綾小路 幹:音の息子。音楽美学専攻の大学院生。高尚な言葉を並べるが、実質的な解決策は何も持っていない。
【場面設定】
開店1時間前のジャズバー「Sound Blue」。音はカウンターの中で、店先に置く「本日のおすすめメニュー」の小さな黒板とチョークを手に持っている。幹は客席の椅子に座り、ノートパソコンを開いている。

綾小路幹:母さん、その店頭の黒板メニューだけど、ちょっと視覚的なリズムが単調だね。文字の並びが綺麗すぎて、通りすがりの人の足を止めるような意外性がないというか、美学を感じないな。
青野音:(手を止め、黒板を見つめる)リズムが単調? そうかしら。カクテルの名前と価格を、まっすぐ丁寧に書いたつもりだったのだけれど。少し保守的すぎたかもしれないわね。
幹:そうだよ。お店の顔なんだから、もっとこう、見た瞬間に感情が揺さぶられるような即興性が欲しいよ。綺麗にまとめるだけじゃ、ただの情報の羅列だからさ。
音:即興性……。ええ、幹の言う通りね。ウイスキーやカクテルの名前を、誰にでも読めるように整然と並べるなんて、ただの退屈な調和に過ぎない。本来、お酒を飲む行為はもっと感情を解放するものなのに。私はそれを、枠線の中に閉じ込めていたのね。
幹:その通り! 決まりきった枠組みなんて、もっと自由に崩しちゃえばいいんだよ。
音:(視線を上げ、深く息を吐く)崩す。分かったわ、幹。あなたのおかげで、目が覚めた。メニューの文字を正しく読ませようとすること自体が、表現に対する冒涜だわ。いっそ、カクテル名なんて一切書くのをやめるべきなのよ。
幹:(パソコンの手が止まる)……え?
音:黒板の真ん中に、チョークでただ一本、激しい斜線を引く。あるいは、お酒の種類に合わせて、私がその時の感情で黒板にチョークを叩きつけて、粉々に砕けた跡だけを残すの。それを見たお客が「これは何を意味しているんだ」と思考を巡らせ、店内に足を踏み入れる。その困惑と静寂の連なりこそが、誰も見たことのない究極のアヴァンギャルドになるのよ。私は今から、この看板の役割を完全に破壊するわ。
幹:(目を泳がせ、パソコンをそっと閉じる)素晴らしいよ、母さん。その既成概念にとらわれない解釈、まさに魂の表現だね。
音:ありがとう、幹。さあ、まずはこのチョークを折るわね。
(音が手元のチョークを真剣な表情でパキッと折る。幹は深く頷きながら、自分の荷物をまとめて、いつでも逃げられるように席を立ちかけている)
(幕)
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