【登場人物】
阿斗 理恵(35歳・音巴里荘大家)
辻 さゆり(28歳・フリーランス校正者)
【場面設定】
夏の午後、音巴里荘の庭。理恵が大きなたらいに水を張り、洗濯板でTシャツを洗っている。

辻さゆり:阿斗さん。その、木でできた波型の道具を使うメリットは何ですか。全自動洗濯機の方が、時間も労力も無駄がないと思うのですが。
阿斗理恵:時間と労力を省いてしまったら、自分が今日生きてたってことを、どうやって証明するのよ。
さゆり:証明、ですか。
理恵:そう。このTシャツの首周りについてる黄色い汗はね、昨日この子が一生懸命キャンバスに向かって絞り出した命の残りカスなのよ。それを機械のボタン一つでなかったことにするなんて、失礼じゃない。
さゆり:皮脂汚れを落とす行為に、他者への敬意が関係するとは思えません。ただの物理的な洗浄です。
理恵:物理的だからいいのよ。この洗濯板の溝に生地を押し当てて、私の腕の力でゴリゴリこする。この摩擦の音が、彼らの生存の鼓動なの。
さゆり:(少し黙って)生存の、鼓動。
理恵:泡が立って、泥水が跳ねて、私の肌に張り付く。他人の生活の汚れを私の手で直接受け止めるから、明日もこのアパートは息ができるのよ。
さゆり:……汚れを受け止める。私は今まで、文章のノイズはただの誤りで、削ぎ落とすことだけが正しいと信じていました。
理恵:削ぎ落とすだけじゃ、ただの漂白よ。漂白された布って、冷たくて固いでしょ。泥臭いものを力ずくで揉み込んで、最後に思い切り絞り上げるから、また新しい汗を吸い込む隙間ができるの。
さゆり:……新しいものを吸い込むための、隙間。
理恵:絞る時はね、魂ごと搾り取るつもりでねじり上げるの。そうすると、布も人間も、しゃんと立つわよ。
さゆり:なんだか、校正という仕事の根本的な意味を覆された気分です。誤りを消すのではなく、不格好な熱量ごと、一度しっかり揉み込む……。
理恵:わかったら、あんたもその窮屈そうなシャツ、ここで脱ぎなさい。私が丸ごと洗ってあげるから。
さゆり:え。いえ、さすがに庭で服を脱ぐのは、その、少し論理の飛躍が……。
理恵:いいから。あんたのその頭でっかちな理屈も、井戸水で流せば案外いい匂いがするかもしれないわよ。
さゆり:しかし、次から次に、見事な……。
理恵:なに?
さゆり:いえ、いいです。
(了)
作・千早亭小倉
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