これはまだ、ここあん村が「あのこと」を経験するずっと前のこと。
【登場人物】
神崎志乃(40):喫茶「小古庵」ママ。泣き虫。
渡尾愛子(45):居酒屋「ここきた」ママ。感覚がズレている。
エビ子(48):バー「ひまじん」ママ。ミック・ジャガー。
海(60):小料理「海」ママ。パチンコ好きの妖婦。
【舞台設定】 午後4時30分。喫茶「小古庵」。 店内にはバッハが静かに流れ、志乃が力なくテーブルを拭いている。
志乃:(溜息をつき、布巾を絞る)はぁ。今日のお客様、サノケンさんだけ。あとは窓を叩きに来た野良猫が一匹。私、やはり商売には向いていないのかしら。(すでに目が潤んでいる)
カランコロン! と激しくドアが開く。愛子が鼻息荒く飛び込んでくる。
愛子:志乃ちゃん! 娘、煮すぎたわ!
志乃:えっ。愛子さん、ついに実の娘さんを煮てしまったんですか。
愛子:違うわよ。娘が店を手伝ってくれたのはいいけれど、「お母さんの人生と同じで煮え切らないわね」って火力を最大にされたのよ。おかげで鍋の中はもう泥沼。
志乃:もう。お嬢さんに何かあったのかと思って、寿命が縮まりました。
愛子:気分転換に一番苦いコーヒーを頂戴。あと、これを見て。犯人の写真。
志乃:(愛子の娘の写真を見る)あら。相変わらずお綺麗(スマホを覗き直す)って、これ、愛子ママじゃないですか。
愛子:ふふ。免許証の写真よ。私、大型トラックも転がしちゃうから。
カランコロン! 扉が蹴破らんばかりに開く。エビ子がミック・ジャガーのような足取りで入ってくる。
エビ子:ハロー、リトル・クイーンたち。志乃ちゃん、悪いけど「レッドブルのテキーラ割り」をジョッキで。あと、この店、何でストーンズが流れていないの?
志乃:エビ子さん。ここは喫茶店です。テキーラなんて置いていませんし、喫茶店といえばバッハと決まっています。
エビ子:バッハ? 誰それ。クラウトロックの新人? それより聞いてよ。常連の大学生に「誕生日プレゼントは何がいい」って聞かれたから「ベンツ」って答えたら、連絡が途絶えたわ。最近の若者はガッツが足りないわね。
愛子:それはあなたが悪いのよ。私はこの間、常連の子の誕生日に映画のチケットをあげようとしたら、封筒に間違えて「店の権利書」を入れちゃったわ。
エビ子:スケール感がバカなのよ、あんたは。
カランコロン。ねっとりとした音を立てて、海が入ってくる。すでに酒の匂いがする。
海:(妖艶な微笑みで)あらあら。エビちゃん、またベンツの話? 笑っちゃうね。
志乃:海ママ。また開店前から飲んでいるんですか。
海:散歩をしていたら、勝手にハイボールが口に飛び込んできたの。抗えなかったわ。泣けちゃうね。それより志乃ちゃん、BGMをベートーヴェンの『運命』に変えて。リーチがかかった時の気分になりたいの。
志乃:またパチンコの話ですね。
愛子:ねえ、そんなことより。私たち、ちょうど4人じゃない。
エビ子:何よ、麻雀でも打つ?
愛子:違うわよ。今日、ここで宣言するわ。ここあん村のママは、これまで私たち「3ママ」でリーチがかかったままだったけれど、今日から志乃ちゃんを入れて「4ママ」になるのよ!
志乃:えぇっ!? 私なんて、ただの泣き虫な店主ですよ。(当惑と喜びが混ざった表情で)皆さんみたいに、客に無理難題を言ったり、権利書を譲ろうとしたり、パチンコ台に運命を託したりなんてできません!
海:ふふ。いいのよ、志乃ちゃん。あなたには「人の話を聞く」という、私たちには欠落している特殊能力があるわ。
エビ子:そうよ。あんたが泣きながら聞いてくれるから、みんな安心して嘘をつけるの。今日からあんたは「泣き落としの志乃ママ」よ!
志乃:泣き落とし。そんな、私。うぅっ(泣き始める)。
愛子:ほら、もう仕上がっているじゃない。完璧よ!
海:泣けちゃうね。じゃあ、結成記念にパチンコへ行くわよ。
エビ子:私はライブハウスで暴れるわ。愛子、筑前煮の残骸を持ってきなさい。
愛子:いいわよ。ベンツと居酒屋と交換ね。
志乃:あの、皆さん! 私のお店、まだ閉店時間ではないんです!
エビ子:細かいことはミックに聞きなさい。Satisfactionよ!
海:運命は、回るものよ。
愛子:さあ、ここあん村の夜が始まるわよ!
三人は、泣きじゃくる志乃を無理やり引きずって、夕闇の街へと消えていく。 小古庵のカウンターには、泥のような筑前煮だけが残された。
(幕)

作・千早亭小倉
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