
カラオケボックスの小部屋。部屋には、恋流波陽と、陽のバイト先「ぽんちょ」の先輩パート中野小春の二人きりだ。
「さて、何を歌おうかしら」
中野さんが、マイクを両手で丁寧に握りしめながら、天井を眺めている。
いつもの柔らかい笑顔である。陽は少し緊張しながらも、中野さんの隣でデンモクを操作していた。中野さんの歌声を聞くのは初めてだ。
直後、マイクを通した奇妙なうなり声が部屋を震わせた。
「ウオォォォ」という地鳴りのような低音に、「ヒィィィ」という笛のような甲高い音が重なる。
陽は持っていた烏龍茶のグラスを落としそうになった。もしかして、中野さんは極度の音痴なのだろうか。いや、違う。
「中野さん、それ、ホーミー(Khöömii)ですか、モンゴルの」
陽の問いに、中野さんはピタリと発声をやめ、目を輝かせた。
「よく分かったわね。喉の奥で共鳴させて、二つの音を同時に出すのよ。まるで二つの魂が一つに溶け合っているみたいでしょう」
「まさか中野さん、ホーミーができるんですか」
中野さんは静かに微笑んだ。
「ええ。お父さんの仕事の関係でモンゴルに住んでいた頃、現地の遊牧民から直接教わったの」
「モンゴルに住んでいたんですか。いつ頃ですか」
「三歳の頃ね」
三歳でホーミーを習得する幼児がどこにいるのか。陽は驚きを隠せなかったが、中野さんは遠くを見るような目でモンゴルの夜空について語り始めた。広大な草原に寝転んで見た満天の星、そして馬頭琴の響き。話のスケールが、普段スーパーの特売について語る中野さんからは想像もつかないほど大きい。
陽は、この常識外れな一面にすっかり夢中になっていた。
「中野さんって、本当に色々な経験をしているんですね」
「ふふ、そうね。森羅万象、あらゆることに興味があるの」
二人はその後も、最新の家電の話からシルクロードの歴史まで、幅広い話題で盛り上がった。ひとしきり語り合った後、中野さんは少し身を乗り出した。
「次は陽くんの歌が聴きたいわ。ロックをお願い。できるだけ激しいやつ」
陽は中野さんのリクエストに応え、アップテンポで激しいロックナンバーを入れた。スピーカーから轟音が鳴り響き、陽は立ち上がって全力でシャウトした。カラオケルームは熱気に包まれる。
しかし、間奏に入ってふと隣を見た陽は、そのままマイクを握りしめて固まった。
中野さんは座ったまま、すやすやと眠っていたのだ。
(この爆音で寝るかな)
陽は心の中で突っ込んだ。そして眠る中野さんを起こさないよう、後半のサビを裏声のバラード調に変えて静かに歌い切った。
中野さんはまったく起きる気配がなかった。ことんと中野さんの頭が、陽の肩に乗った。陽はそれ以上歌うのをあきらめた。
カラオケボックスを出た後、二人はコンビニで温かいお茶を買い、近くの公園のベンチに座った。
「今日は本当に楽しかったわ。陽くんの歌声、まるで子守唄みたいで心地よかった」
中野さんは満面の笑顔で言った。あの激しいロックが子守唄になる神経は謎だったが、陽は少し照れながら答えた。
「こちらこそ楽しかったです。中野さんといると、あっという間に時間が過ぎます」
「また近いうちに一緒に来ましょう。今度は私がギターを持っていくわ」
「え、中野さん、ギターも弾けるんですか」
「少しだけよ。昔、バンドを組んでいたことがあるの」
中野さんは控えめに笑った。
「どんなバンドですか」
「デスメタルよ」
中野さんの底知れない一面に、陽はまたしても言葉を失った。満天の星空の下、陽の頭の中では激しいギターの音が鳴り響いていた。
(了)
作・千早亭小倉
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