コント「挨拶の現象学的還元」

【登場人物】
氷上 静ひかみしずか : ブックカフェ『シズカ』のオーナー。あらゆる事象を言葉で分析しようとする現代思想家。 
恋流波 陽こひるははる : なぜかまだ大学に在籍している5年生。飄々とした態度で本心を見せない。静の元教え子で、かつて特別な関係にあった(らしい)。 

【場面設定】
平日の朝。ここあん鉄道・大学前駅の上りホーム。通勤・通学のラッシュが一段落し、少しだけ穏やかな空気が流れている。静が文庫本を読んでいると、少し離れた場所から陽が近づいてくる。

(陽が静に気づき、わざとらしくない程度に近づいて、彼女の視界に入る位置で立ち止まる。静はふと顔を上げる)

氷上 静:あら、おはよう。

恋流波 陽:(少しの間。くすくす笑いながら)おはようございます。

:……何がおかしいのかしら。私の顔に、何か付いている?

:いえ。ただ、先生でも、挨拶は普通に「おはよう」なんですね。

:(本に栞を挟み、ぴしゃりと閉じながら)まず訂正させてもらうけれど、私はもうあなたの「先生」ではないわ。それから、挨拶が「普通」でなければ、一体何だというのかしら。

:だって先生…あ、静さんか。静さんって、いつも何でも哲学的に語るじゃないですか。「このプリンは社会の縮図だ」 とか。だから、挨拶の言葉も何かこう、哲学的というか、小難しい感じかと思って。

:(心底呆れたように、しかし少し面白そうに眉をひそめ)……馬鹿なことを。朝の挨拶は、相互の存在を承認するための、最も簡潔で効率的な社会的記号よ。そこに過剰な意味を付与するのは、野暮の極みというものだわ。

:へえ、記号ですか。じゃあ、今の「おはよう」で、俺は静さんから「存在してよし」って承認されたわけだ。なんか嬉しいな。

:言葉の綾よ。……でも、待ちなさい。「挨拶を哲学的にする」とは、どういう状態を指すのかしら。挨拶という行為そのものを一度『括弧』に入れ、その本質的構造を問うということ? 

:(肩をすくめて)さあ? 例えば、ハイデガーなら……。

:(陽の言葉の先を奪って)彼なら、「おはよう」ではなくて、「現存在(ダーザイン)よ、君は今、朝という明るみの中に投げ込まれているね」かしら。(真剣な顔で考え込み)それは挨拶ではなく、存在への問いかけよね。カミュならどうかしら。「この不条理な朝に、君もまた、シーシュポスのように無意味な一日という岩を押し上げるのかね?」……少し厭世的すぎるわね。

:(笑いをこらえながら)あははは、そんな挨拶されたら、いくら静先生からでも、その日一日、気が重いですよ。

:そ、そうかしら。(ホームに池袋行き電車の到着を告げるアナウンスが聞こえるが、静は思考に夢中で気づかず)むしろ、覚悟が決まって清々しい一日の始まりになる可能性も……。というか、「先生」ではないと言ったでしょう。

:静さん、乗らないんですか? 哲学的な朝の考察もいいですけど、乗り遅れますよ。

:(はっと我に返り)……ええ。そうね。でも、いいわ。陽は、先に行って。

: はいはい。

:(電車に乗り込む陽の背中に大声で)あなたとの対話で、極めて重要な問いが生まれたわ。

:(まわりの客から見られて恥ずかしがりながら)え、な、なんですか?(口だけ動かす)

:完璧な「おはよう」って、人生に必要なのかしら? 

(陽の答えを待たずに、電車のドアが静かに閉まる。ホームに残された静は、しばらく固まって、ぶつぶつ言いながら、読書を再開する)

(幕)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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