政府倫理局の個室。南花焚美は、眼前のどんぶりから立ち昇る真っ赤な蒸気に目を細めていた。
――地獄・極《GOKU-GOKU》。
部下のジェニ美がどこからか見つけてきたという激辛ラーメンのスープを一口啜る。熱というより、物理的な衝撃が鼓膜を突き抜けた。視界が白く爆ぜ、内臓が震える。
「……飛ぶ」
焚美の意識が遠のく。
次の瞬間、鼻腔を突いたのは最新鋭の空調の匂いではなく、湿った土と、焦げた醤油の混ざり合う、ひどく泥臭い空気。そこは、深い霧に包まれた駅前の屋台だった。
「あー、辛っ」
景色がすっかり変わっていることに、焚美は違和感をおぼえなかった。ジェニ美が持って来る変わりもののラーメンを食べると、この手のことがよくある。
焚美は平然と箸を動かす。
手書きのお品書き、裸電球のオレンジ色の光。今日のこの景色はどこか懐かしく、安らぎさえ感じた。
「いいんじゃない? 今夜はレトロか」
焚美はそう独り言ちて、隣の客に視線を向けた。
そこには、紺のジャージ姿で大量の汗をかいている女がひとり、ラーメンを啜っていた。足元に転がっている頭部の目と目が合う。着ぐるみの頭だった。
女はタオルで首筋を拭い、ドンブリの中身と焚美の顔を交互に見る。
「それって、ここのメニュー……だよね。見てるだけで、熱出そう」
隣の女はラーメンで頬を膨らませながら、焚美に話しかけてきた。
「これくらい刺激がないと、仕事のストレスが抜けないのよ。お姉さんも、大変そうね。その猫、重いんでしょ?」
「猫じゃないよ。これが猫に見えるなら、このあたりの人じゃないね」
それは、ここあん村住民なら知らぬ者のない、というか住民にしか知られていない公式ゆるキャラ「ちいにゃん」の頭だった。
「中の温度は、軽く40度以上。自分の吐く息で溺れそうになるよ」
女は、そう言って自嘲気味に笑った。
「ちょっとわかる。私の仕事も、焼けたデータの海でしょっちゅう溺れそうになるから」
二人は、初対面とは思えないリズムで、コップの水を同時に飲み干した。

「名前、なんていうの?」女が尋ねる。
「焚美。ちょっと古臭い名前でしょ」
「焚き火? 変わってるね。あたしはおちば」
「……落ち葉?」
焚美は、おちばと名乗った女の、熱気を帯びた逞しい腕を見た。
「焚き火と、落ち葉、か。なんだか、すごく相性が良さそうね」
「ふたり合わさるとよく燃えそう。辛いラーメンでも、ぼわっとね」
おちばは快活に笑い、どんぶりの底に残ったスープを飲み干した。
「ああ、うまかった」
焚美もまた、どんぶりを傾けて最後の一滴を飲み干した。腫れた唇を舌で湿らせ、喉の奥に火を灯したような余韻に浸る。ラーメンの汁が白衣を汚しても少しも気にならなかった。
「あんた、鉄の胃袋だね」
おちばが感心したように言った。
「ねえ、あんた、このへんの人間じゃないんでしょ。駅、急いだほうがいいよ。M線の最終、もうすぐだから。乗り遅れると、この霧だ。一晩中、同じ場所をぐるぐる回ることになる」
「ぐるぐるって、なにそれ」
焚美は笑いながら手首をさする。無い。そこにあるはずの硬質な感触がない。
「あっれ、時計がない。どこかに落としたかな」
視線をカウンターの下にも走らせるが、影が濃くてよく見えない。遠く、霧の奥から低い警笛の音が響く。最終電車の合図だ。
「まっ、いいか。落ち葉、見つけたら持っといて」
「ええ、まあいいよ、焚き火」
「じゃ、私、行くね!」
そう言うと、焚美は、脱兎のごとく霧の中へ走り出した。
「はぁ、はぁ……」
霧の中を駆け抜け、焚美は駅のホームへと滑り込んだ。
「ん、でも、私、どこに向かってんだ?」
焚美が我に返るのと、奥歯の隙間に挟まっていた七味の種を、ガリリと強く噛み砕いたのがほとんど同時だった。瞬間、脳髄を直接針で刺されたような、純粋な痛覚としての辛味が爆発する。
「――あ、飛ぶ」
視界が再び白熱する。足元の湿ったコンクリートの感触が消え、鼻腔を、清潔すぎる無機質な空調の匂いが満たした。
屋台には、おちばと店主だけが残された。
「あ、食い逃げ!」
店主が大声を上げる。
「あれま、大将ったら代金もらい忘れ? まあ、私が急き立てたからね。私の分もまとめて勘定して」
おちばは支払いを手早く済ませると、爪楊枝をシーハーしながらちいにゃんの頭に手を伸ばした。と、そのわきにぼんやりと光るものが。見たこともない奇妙な銀色のデバイス。
「なにこれ、ブレスレット?」
拾い上げると、表面に青白い光の数字が浮かび、静かに、しかし緻密に時を刻んでいる。
「さっきの白衣のお嬢さんが言ってた時計かね」
店主がおちばに釣り銭を渡しながら尋ねる。
「時計にしても変わってるよね」
おもちゃにしては、皮膚に吸い付くような冷たい質感と重量感がある。
「おちばちゃんの、知り合いなのかい?」
「ん、知らない。初めて。初めてだけどさ……」
おちばは、ちいにゃんの頭を抱え直すと、自分の体から立ち昇る凄まじい湯気に目を細めた。
「また会える気がする」
ちいさく呟くと、南花おちばは、まだ光り続ける謎の物体をジャージのポケットに放り込み、夜の霧の中へと消えていった。
(了)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)



