『水底に差す月光の輝きをキミはまだ知らない。』において、論理の鎧を纏う大学講師・氷上静と、彼女の孤独な世界に迷い込んだ学生・恋流波陽(はる)が繰り広げた、平均台を駆け抜けるような危うい疑似恋愛。本作は、その関係が不器用な形で破綻した後の出来事である。

喧騒が日常の編集プロダクション「ぽんちょ」。古河モン太郎社長の豪快な怒声と、社員の臼葉が発する意味不明な奇声が遠くで響き、それを鶴亀昌子がモニターから目を離さずに淡々とスルーしている。
そんなドタバタした社内の片隅で、アルバイトの恋流波陽(はる)は、応接室へとお茶出しに向かっていた。
ドアをノックし、失礼しますと足を踏み入れたはるは、来客の顔を見て思わず息を呑んだ。
「……静さん?!」
持っていたお盆が微かに震え、茶托に乗せた茶碗がカチャリと音を立てる。
上品なスーツに身を包み、涼しげな目でこちらを見つめているのは、ここあん大学の哲学科講師、氷上静だった。
かつて、はるが「平均台を駆け抜けるような危うい疑似恋愛」の末に、はるの方から逃げるようにして疎遠になってしまった相手だ。
「ごめんなさい、はるくん。お茶出し代わってもらっちゃって」
穏やかな足取りで入ってきた中野小春の声に、はるの背筋に冷や汗が伝う。過去の冷たい恋と、現在の温かい癒やし。ふたりの女性の間に、突然挟まれてしまった格好だ。
「氷上先生、お待たせして申し訳ありませんでした」
小春は静に向かい丁寧に頭を下げると、はると静の間に流れる奇妙な空気にすぐに気づいた。
静は小春に軽く会釈を返すと、再びはるに視線を向けた。
「まさか、ここであなたに会うとは思わなかったわ。ずいぶんと……元気そうね」
静の言葉の裏にある、波紋一つ立たない静けさに、はるは身を縮める。
「え、もしかして、はるくんって、氷上先生とお知り合いだったの?」
小春が瞬きだけで素直な驚きを示す。嘘や隠し事を匂いで察知する小春のことだ、はると静の間の微かな緊張に気づいていないはずはないが、あえて場を和ませるように振る舞う。
「え、ええ……大学の講義で、少しだけ」
はるがしどろもどろに答えると、小春は意味ありげに微笑んだ。
「うちでは、はるくんって呼んでるので、つい。氷上先生、変な会社って思わないでくださいね」
「いえ。こひるはさんは、呼びづらいでしょうね」
静が小さく首を振って答える。
「彼がこんな雑多な……失礼、生のエネルギーに満ちた職場で働いているなんて、少し」
静の言葉を、小春が引き継いだ。
「意外ですか? そう、意外。はるくんは意外な一面が多いんですよ。例えば、コーヒーを淹れるのがとても上手くて」
「それなら、淹れてもらおうかしら」
静の眼鏡の奥の瞳が、はるをとらえる。
「え、僕ですか?」
「あなたしかいないでしょう、はる」
静の口から、不意にかつての呼び名がこぼれ落ちた。
はるの肩が小さく跳ねる。静の書斎で知的な対話を重ね、不器用に距離を縮めていた「先生とハル」の時間が、鮮やかにフラッシュバックする。
小春もその自然な響きに一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかい笑顔に戻った。
「あら、いいじゃない。はるくん、先生に美味しいコーヒーを淹れてさしあげて」
「え、あ、はい……!」
はるは二人の視線に耐えきれず、応接室を飛び出した。
給湯室でコーヒー豆を挽きながら、はるの心臓は早鐘のように打っていた。
静は一体、自分をどう思っているのだろう。あのヒリヒリとした関係の終わりを、彼女はどう処理したのか。
そんな不安を抱えながら、はるはコーヒーを淹れ終え、再び応接室へと戻った。
室内では、静と小春が思いのほか和やかに会話を交わしていた。論理と理性の静と、感覚と受容の小春。水と油のように見えて、どこか不思議な波長が合っているようだ。
「あの、コーヒーをお持ちしました」
「ありがとう、はるくん。さあ、氷上先生、はるくん渾身のコーヒーをどうぞ」
小春の軽口に、はるは腰砕けになりかける。静はいさい構わず、コーヒーカップを口元に運んだ。一口飲み、そして、静かに目を閉じた。
「美味しいわ」
静は目を開けて、はるに視線を向ける。
「ありがとう。あなたの淹れるコーヒーは、まるで……」
静は言葉を探すように、カップの縁を見つめた。
「水底に差し込む、あたたかな陽の光のようね」
「水底に差し込む……」ふたりが同じ時間を共有した短い過去を思い出させるような、独特の詩的な表現に、はるは戸惑う。
「ふふ、氷上先生ったら素敵な表現ですね」
小春が楽しそうに笑った。
「はるくんのコーヒーは、私にとっては、冷えた手をそっと包み込んでくれるような、じんわりとした温かさかな」
小春の言葉のままに、はるの冷え切っていた心がじんわりと温かくなるのを感じた。
孤独な水底を照らす微かな熱と、冷えた手を包み込む陽だまり。
静と小春はそれぞれ違う表現で、はるのコーヒーを評価した。
「じゃあ、僕は仕事に戻ります」
はるはこれ以上二人の間にいることに耐えられず、逃げるように応接室を後にした。
「ふふ、はるくんったら、逃げ足が速いわ」
小春は、はるの後ろ姿を見送りながら静に微笑みかけた。
「そうね。彼は、平均台から落ちる前に、自分から飛び降りてしまうようなところがあるから」
静もまた、はるが去ったドアを見つめている。
「氷上先生は、はるくんのこと、どう思ってるんです?」
小春は、静の瞳の奥にあるものを探るように問いかけた。
「どう、とは?」
「さっき彼を『はる』って呼びましたよね。昔からの知り合いという以上の、何かやり残したことがあるような響きを感じたので」
「彼は、私の孤独な思考の海に迷い込んできた、珍しい深海魚のような存在だったのよ」
静は、冷徹な仮面を被り直して答えたが、その声には微かな寂しさが混じっていた。
「でも、彼には私の世界の水圧は冷たすぎたようね。だから、お互いのために『けり』をつけた。すっかり忘れていたはずなのに、思いがけない場所で再会してしまったから、少し調子が狂っただけ」
強がるような静の言葉に、小春は小さく首を振った。
「はるくんは、息が続かなくなっただけじゃないかしら。水圧に耐えるより、一緒に水面に上がってくれる人を求めていたのかも」
「そうね。それでも……」
「でも?」
「彼は平均台の上を全速力で駆け抜けている時だけは、驚くほど有能で、不思議な熱を持つから」
静は、コーヒーを口にして、ゆっくりと言葉を探した。口の端にわずかな笑みが浮かぶ。
「彼があの変な力を発揮して、今はあなたを楽しませているんじゃなくて?」
「変な力? うふふ」
小春は口元を押さえて笑った。
「はるくんはただ、一生懸命なだけですよ。でも、先生の今の目、むかしをほんの少しだけ懐かしんでいるような」
小春の言葉に、静はゆっくりとかぶりをふった。
「昔は昔。それは、過ぎ去った観測データに過ぎない」
静は、小春の鋭い指摘から逃れるように、コーヒーの残りを飲み干した。
「そして、今は今。今の彼の不器用な呼吸を、あなたがせいぜい見守ってあげて。彼は、すぐに自分の居場所を見失って遭難してしまうから」
冷たい言葉の中に、ほんのわずかな不器用な優しさと諦念を滲ませて、静はカップを置いた。
二人の間には、静かな火花と、不思議な共鳴が交錯していた。
まだ誰も知らない。
いずれ、この分厚い氷壁に守られた静の孤独を、小春の底知れぬ包容力が丸ごと受け止める日が来ることを。 今はまだ、コーヒーの香りが漂う応接室での、ほんの小さなすれ違いに過ぎなかった。
(了)
作・千早亭小倉
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