ブックカフェシズカの朝。
マホガニーのカウンター。静が、一分の狂いもなく磨き上げるその滑らかな銀河に、それは「こぼれて」いた。
液体ではない。漆黒の絵具を垂らしたような、しかし奥行きだけが無限に続く「空間の剥離」だ。
「……事象の地平面の漏出? いいえ、質量保存の法則に対する明白な反逆だわ。出典のない引用のような、醜悪なバグ」
静はピンセットで剥離の縁を慎重に摘まみ、除去を試みた。
しかし、鋼鉄の先端は虚空をすり抜け、チッという金属的な舌打ちとともにカウンターに虚しく弾かれる。物理的な干渉を拒絶する「未定義」の存在を前に、静の額に汗が浮かぶ。彼女が最も苦手とするのは、自身の論理で「清掃」できない不条理だ。
「静さん、そこ、まだ拭いてなかった?」
焙煎室から顔を出した中野小春は、静の戦慄をよそに、エプロンのポケットから事務用のメンディングテープを取り出すと、迷いなくその奈落の入り口を覆うようにバツ印で封じた。
剥離した空間が、テープの粘着面に強引に平坦化された。小春はそこに、淹れたての珈琲を静かに置いた。
「ふふっ、ちょうどいい目印ね。ここ、熱いから気をつけて」
世界を飲み込もうとした深淵は、小春の手によって、単なるカップの「敷物」へと堕とされた。
(幕)
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