【登場人物】
鶴亀 昌子:編集プロダクション「ぽんちょ」の社員。仕事熱心でタフな姉御肌の実務担当。
古河 モン太郎:編集プロダクション「ぽんちょ」の社長。元演歌歌手で、理屈よりも「生のエネルギー」を愛する。
辻 さゆり:フリーランスの凄腕校正者。「論理の破綻」をノイズとして容赦なく赤字で削ぎ落とす言葉の外科医。
【場面設定】
深夜2時の編集プロダクション「ぽんちょ」のオフィス。机の上には栄養ドリンクの空き瓶がいくつも積まれている。

鶴亀昌子:(モニターから目を離さず、キーボードを叩き続ける)
古河モン太郎:おい、かめちゃん。この原稿、なんか違うんだよな。心臓の鼓動が聞こえてこねえっていうかさ。
昌子:社長、鼓動より先に文字数が足りてません。1000字も。明日の朝イチで印刷所に回さなくちゃなのに。
辻さゆり:(ゲラから頭をあげて)しかも、このP16の上から2段目。主人公が泣きながら笑って、同時に激怒しています。物理的に顔面の筋肉が破綻していますね。
モン太郎:そこがいいんじゃねえか! 魂の熱だよ、熱! 理屈じゃ説明できねえ、生のエネルギーが爆発してんだよ!
さゆり:エネルギーの爆発なら消防を呼ぶべきです。意味が通じない装飾的な言い回しは、すべて赤字で削りますよ(ものすごい勢いでゲラに赤字を入れ始める)。はい、かめちゃん。
昌子:(さゆりから、ゲラを受け取り、キーボードを叩きまくる)赤字、片っ端から反映します。
さゆり:P17の頭2行目。「永遠とも思える刹那の静寂が降り降りた」って、ただ黙っただけですね。削ります(ものすごい勢いでゲラに赤字を入れ、昌子にパス)。
昌子:(モニターから目を離さず、ゲラを受け取り)拝受! バックスペースばーん。
モン太郎:ばーんじゃねえよ、おい。画面の右下の文字数カウンター、どんどん減ってないか。
昌子:減っています。物理的に減っています。現在、規定文字数までマイナス1200字です。
モン太郎:状況が悪くなってるじゃねえか。
さゆり:次、同じくP17の最下段。後ろから6行目。「大地を揺るがすような悲しみの波動が」。地震の描写ではないので不要です。削ります。
昌子:(ゲラを受け取る前にキー操作)はい、消去しました。(ゲラをさゆりから受け取り、画面と見比べる)、拝受、直しオーケー。あと、1300字。正確には、1316字足りません。
モン太郎:お前ら、わざとやってんだろ。明日の朝イチで印刷所に入れるんだろ。増やさなきゃいけないのに、なんでどんどん削るんだよ。
昌子:さゆりさんが削れと言ったからです。さゆりさんの校正は絶対です。
さゆり:無駄な言葉を残すのは、読者への裏切りです。
モン太郎:俺への裏切りはどうなるんだよ。編集権、編集権。頼むから何か書き足してくれよ。なんでもいいからさ。
昌子:編集権が無いので(モン太郎の狂気じみた視線を笑顔で受け流し)無いけれど。なんでもいい? わかりました。お気持ち拝受! 社長の昨日の昼ご飯のメニューでも打ち込んでおきます。
モン太郎:やめろ。なんで純文学の途中に「カツ丼大盛り」が入るんだよ。
昌子:社長、豚汁も付けてたことを忘れてますね。レシートに書いてありました。
さゆり:すばらしい。カツ丼と豚汁の描写のほうが、今の主人公の不明瞭な心情よりよほど実感がこもっています。加えましょう。
モン太郎:俺、出てこないだろ、その話に。頼むから俺にパソコンを触らせてくれ。俺が熱い魂を打ち込むから。
昌子:お断りします。社長の指は太すぎて、隣のキーまで一緒に押してしまうので修正の手間が二倍になります。机から離れてください。タイピングの振動で、積んである栄養ドリンクの空き瓶が倒れます。
モン太郎:おいおい、かめちゃん。俺の直感だと、ここは残した方が絶対読者の胸を打つって。
昌子:(無言で、さゆりのほうを見る)
さゆり:読者の胸を打つ前に、日本語の文法が崩壊しています。それより、かめちゃん。
昌子:はい?
さゆり:あなたのデスクにあるその栄養ドリンクの空き瓶の数! 目の下にクマを作りながら、頬から顎にかけての潤いときめの細やかさを保っているのが、その栄養ドリンク効果だとしても、看過できません。
昌子:人は私を歩く二律背反と呼びます。
さゆり:生化学的な鉄則を完全に無視すると。その「歩く何々」という呼び方はあまり好きではないのだけれど。
モン太郎:かめちゃん、たまには人間らしく笑えよ。ほら、社長の奢りで特上寿司でも頼むか? 奮発しちゃうぞ。
昌子:私が電話をかける間に、キーボードの打刻権を奪うつもりですね、社長。ちなみに、ここあん寿司の出前は夜10時で終わりました。今は深夜2時37分です。代わりにそこのコンビニで、お茶とブラックコーヒーを買ってきてください。
モン太郎:あの、赤い落語家がバイトしてるところだろう? 外、結構寒いぜ? 俺が行くの?
さゆり:社長が行くのが最も合理的です。私たちは今、作業の手を止められませんから。(プリントアウトされた直しを、すさまじい勢いで確認している)
モン太郎:……わーったよ。わーりました。お前らの冷え切った魂を温める、とびきり熱いコーヒーを買ってきてやるよ!
昌子:普通のブラックでお願いします。レシートも忘れないでくださいね。
(幕)
作・千早亭小倉

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