午前四時。
常盤荘の外階段の最上段で、朝霧沙緒はコンクリートに直に座っていた。素肌の上に羽織った綿のシャツの隙間から、冷たい風が入り込む。
ライターのフリントを擦り、煙草に火をつける。息を吸い込み、吐き出すと、外灯の光の中で煙が白く広がった。
沙緒がささやくように口ずさむ。
「ダバダ、ダバダバダ」
古いフランス映画の主題歌だった。
「それ、大人の嘘の音がする」
背後から声がした。振り返ると、鴨下栞が立っていた。十五歳の栞は、沙緒の隣へ腰を下ろした。
「クロード・ルルーシュの映画。男と女が駅のホームで抱き合って終わる話」
「よく知っているわね」
「うん」
栞は、沙緒の指先に挟まれた煙草を見た。
「すごく滑稽。燃え上がったふりをしてるけど、二人の前には退屈な日常しか待っていない。それなのに、永遠の愛を手に入れたような顔で終わるの。大人の嘘って、残酷で気持ち悪い」
沙緒は親指で煙草の灰を弾き落とした。
「だから、映画はあそこで終わるのよ。愛なんて夏風邪と同じ。熱に浮かされている間はいいけれど、引いた後には重い気だるさしか残らない」
「じゃあ、どうして歌うの。その嘘の歌を」
「嘘だからよ」
沙緒は口角を上げた。
「事後になると、男たちは急に哲学者ぶって愛を語り出すの。それがたまらなく退屈で。だから私は、彼らのベッドを抜け出してこの歌を置いていく。永遠なんてないって、残酷に教えてあげるために」
栞は両腕で自分の膝を抱え込んだ。その視線が、沙緒の横顔に向けられる。
「大人になるって、その退屈を繰り返すことなの」
沙緒の言葉を、栞は短く反芻した。
「退屈」
栞は瞬きを一つして、口を開いた。
「なら、次にその夏風邪から覚めたら、私に見せて」
「何を」
「すべてが冷めきったあとの、あなたの空っぽの顔」
栞の声には抑揚がなかった。
「どうせ暇なんでしょ。その退屈な気だるさ、私の奥まで全部吐き出してよ。大人が書く綺麗な嘘の小説より、ずっといいプロットになりそうだから」
沙緒は少し目を見開いた。それから、息を吐き出すように笑った。
「悪くないわね。でも、期待はしないで。ただの空っぽだから」
空が白み始めていた。霧の向こうに、街の輪郭が灰色の影として浮かび上がる。
沙緒は再びフィルターを唇に挟んだ。隣で、栞が沙緒を見ている。コンクリートの冷たさがデニム越しに伝わってくる中、沙緒は静かに旋律を口ずさんだ。
(了)
作・千早低小倉
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