【登場人物】
氷上 静:ブックカフェ「シズカ」オーナー。現代思想家。相手が15歳であっても決して子供扱いせず、対等な観測者として接する。
鴨下 栞:ここあん高校の生徒であり、物語作家。大人たちの嘘や欺瞞を冷徹に観察する早熟な少女。
【場面設定】
午後のブックカフェ「シズカ」。客は少なく、静かなジャズが流れている。カウンターの端で、鴨下栞がペーパーバックを広げている。

「静さん、マーク・トウェインって、本名はサミュエル・クレメンズっていうのね」
鴨下栞が本から顔を上げずに言った。
「『水深二尋』を示す川の測量用語を自分の名前にするなんて。大人の衒学趣味というか、照れ隠しみたいで少し滑稽だわ」
カウンターの内側で珈琲豆を小瓶に移し替えていた氷上静は、手を止めずに応じた。
「そうね。けれど、トウェインにとってその名前は単なる筆名というより、現実社会と距離を置き、安全な場所から世界を観測するための、強固なスードニムだったのかもしれないわね」
「え、……スードニム?」
栞は首を傾げ、手元のスマートフォンに手を伸ばそうとした。栞の手が止まる。正面に立つ静の無言の圧を感じたのだ。
静は布巾でカウンターを拭く手を止めず、壁際の本棚の一角をくいっと顎で示した。そこには、分厚い辞典類が並んでいた。
栞は小さく肩をすくめると、席を立って大ぶりの辞書を一冊抜き出し、テーブルに戻ってページを繰り始めた。
「スー? ええと、それなら、s-u-e? それとも s-u-i かしら」
栞は辞書から視線を上げ、静の顔をうかがう。静はピクリとも表情を変えない。知的上位に立つ者のおごりなど微塵もうかがえない。
数秒の沈黙の後、栞は小さく息を吐いた。
「静さん、見当がつかないわ。スペルを教えて」
「p-s-e-u-d-o-n-y-m よ。頭のPは発音しない黙字。サイコロジーやサイキックと同じ、ギリシャ語由来のルールね」
栞は言われたスペルを元に、再び辞書のページをめくっていく。やがて、その細い指先がピタリと止まった。
「……あ、あった」
ささやかな発見を喜ぶ、栞の小さな声。静は目を伏せ、わずかに口角を上げた。
「ええと、『pseudonym。偽名、筆名』。本当にPから始まるのね。日本人の感覚からすると、少し意地悪な単語だわ」
栞が顔を上げたときには、静の表情はいつもの静かなものに戻っていた。
「……で、このスードニムが、どうして安全な観測所に繋がるの?」
静は拭き終えた布巾を畳み、栞の正面に立つ。
「本名というラベルには、その人間の社会的属性や、肉体的な責任が否応なく付随するわ。クレメンズという生身の人間が社会の不条理を笑い飛ばせば、そこには必ず摩擦が生じる」
静は、空になった栞のグラスに冷水を注ぎ足した。
「けれど、マーク・トウェインという透明なアバター――スードニムを用いれば、彼は本来の自分から切り離された場所に立つことができる。ジョージ・オーウェルも、ルイス・キャロルもそう。彼らは架空の器を用意することで、純度の高い毒や幻想を、現実世界へ安全に注ぎ込んだのよ」
「なるほど。安全圏から石を投げるための防衛術ってことね。理にかなっているけれど、少し卑怯にも思える」
「卑怯と取るか、表現の生存戦略と取るか。栞ちゃん、あなたも小説を書くとき、それは完全に『15歳の鴨下栞』という実体として書いていると言い切れるかしら」
不意に自分自身へ向けられた問いに、栞は少しだけ言葉に詰まった。彼女の冷たく深い瞳が、わずかに揺れる。
「私は私よ。でも、そうね。文章を書いている時は、普段の自分よりも、少しだけ背の高い椅子に座っているような気はするわ」
「それが、あなた自身のスードニムの始まりかもしれない」
静はかすかに口角を上げると、再び奥の棚へと向き直り、静かな店内に豆を挽く低い音を響かせ始めた。栞は自分の書いた原稿を思い出すように、しばらく黙ってグラスの水滴を見つめていた。
(了)
作・千早亭小倉
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