前段のショートショート
【登場人物】
氷上 静:批評家。過去の自分たちの言動を「若さゆえの過剰な象徴化」と分析する。
神崎 志乃:喫茶「小古庵」店主。変わらない笑顔で、過去と現在を繋ぐ役割。
徒然士:屁理屈講師。かつて自分が「文化人代表」から漏れたことを、いまだにメタ的なネタにしている。
【場面設定】
現在の「小古庵」。カウンターの隅に、黄ばんだ『月刊ぽんちょ』のバックナンバーが置かれている。窓の外には、当たり前のようにココアンタワーが立っている。
静(指先で古い雑誌のページをめくる):……「天空を穿つ玻璃の尖塔」。今読み返しても、この文章は胃もたれがする。糖分が多すぎるわ。
徒然士:声に出すな。あのとき私の頭から生えた「幻のちょんまげ」が疼き出す。
志乃:(カウンターで静かにカップを磨く)ふふ。あの日は、徒先生は馬楼さんとご一緒だったのよね。ほんと不機嫌そうにラジオを睨みつけていて。翠村長の「リドミノリドミ」を聞いた瞬間の二人の顔、写真に撮っておけばよかった。
静:私など、あの場にいたのだ。あれは……言語の敗北だ。今思えば、あの「てへっ」という無責任な響きこそが、この村が拡大していくための最初の「ゆるみ」だったのかもしれない。
徒然士:ゆるみ、か。確かに、今のこの村には人が溢れているが、あの頃の「小古庵」にあった、密室のような濃密な退屈はもうどこにもないのかもしれん。馬楼が酔っ払って足をぶらぶらさせていた、あの床に届かない不完全さ。
志乃:(二人の前に、あの日と同じ香りのするホットワインを置く)はい。シナモンとクローブ。先生、懐かしいでしょう? あの時と全く同じ配合よ。
徒然士:(湯気を吸い込み、目を閉じる)香りは、記憶の解像度を強制的に引き上げる。
静:あの時、私たちは「あのこと」の訪れなど微塵も想像せずに、ただガラスの塔が空を刺すのを、何かの間違いのように眺めていた。
徒然士:よかったのは、あのタワーの名前が「ココアの森」にならなかったことくらいだ。もしもそうなっていた日には、私は今頃、ここを出て池袋あたりで「コーヒーの崖」という塾でも開いていたはずだ。
志乃:あら、それはそれで見てみたかったわね。
静:志乃さんはずるい。いつもそうやって、私たちの尖った理屈を飲み物と一緒に飲み込ませてしまう。……でも、このワインが湿った角砂糖のように、過去の刺々しさが溶かされていくのは否定できない。
徒然士:メタ的に言えば、我々はあの「リドミノリドミ」という回文の中に閉じ込められたままなのかもしれないな。上から読んでも、下から読んでも、結局はこのカウンターに戻ってくる。
志乃:それがこの村のいいところよ。どんなに新しい建物が建っても、戻ってくる場所はここにある。
静:(一口飲み、微かに似合わぬ微笑を見せる)「てへっ」、なんて。今なら少しだけ、その響きを許容できる気がする。このワインの温度があるうちに限るけれど。
(カランカラン、とドアベルが鳴る。ビリジアンのコートを翻して、緑野翠が店に入ってくる)
緑野翠:あら、懐かしい面々が。あなたたちには、挨拶は不要かしらね。おこんばんは。私、上から読んでもミドリノミドリ……。
徒然士:(食い気味に)下から読んだらリドミノリドミ! もういい、村長。噛まずに言える自分が情けないわ。それはもう、この村の「古典芸能」の部類だ。本人から聞かされると、ちょんまげが伸びすぎて天井を突き破る。
翠:(一瞬止まって、ニコッと笑う)あら、つれづれ先生。相変わらず頭の上に歴史を渦巻かせてるのね。
静:村長。その回文、今のメタ的な視点から言わせてもらえば、この村の拡大に伴って構造的な強度が失われているわ。あのことを乗り越え、人が戻り、多様性が生まれた今、その単純な反復はもはや「記号」に過ぎない。
翠:(首を傾げて)キゴウ? キゴウでGOだ! よくわかんないけど、みんなが笑ってくれればそれでいいじゃない。ねえ志乃さん、私にも何か温かいものを。
志乃:(にっこりとクッキーを差し出す)はい、村長。これ、新作の「回文クッキー」よ。
静:回文クッキー?
志乃:ええ。上から食べても「サクサク」、下から食べても……。
徒然士:クッキーに上下があるか! ちょんまげ生えるわ!
志乃:ふふ。でも、食べてる間はみんな静かになるでしょ?
翠:(クッキーを頬張って)あら、美味しい! クサクサ……てへっ。
静:(深いため息をつく)その「てへっ」の無敵さ加減。結局、私たちの理屈はいつもその一言に溶解させられる。
徒然士:全くだ。この村がどれだけ変わっても、村長の「てへっ」と、志乃さんの「まあまあ」がある限り、我々は一生このカウンターで管を巻く運命なんだろうな。
翠:いいじゃない。上から読んでも「ここあん」、下から読んだら「んあここ」? わ、のどにつかえそう。
静:無理に逆さにする必要はないわ。前を向いて歩きなさい。
翠:はいはい!
志乃:さあ、新しいホットワインが入ったわよ。今度はもっと甘くしておいたわ。
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/01/tops2.jpg)


