これは、日記という名を借りた私の記憶。
遠野から戻り、数日ぶりに本館の通用口を開けた。紙と埃、それにほんの少しの湿気が混ざったいつもの匂いが、静かに鼻をくすぐる。たった数日不在にしただけなのに、随分と長い間ここを離れていたような気がする。
ああ、戻ってきたな。そんな少しけだるい懐かしさを覚えつつ、私の身体は慣れ親しんだこの場所の空気に、驚くほどあっさりと馴染んでいく。
それが少しだけ、もどかしい。
遠野で吸い込んだあの冷たくて澄んだ空気や、中野文さんとぽつりぽつりと交わした言葉の温度を、ここあん村の日常のペースで薄れさせたくなかったから。
「戻ったか。遠野はどうだった」
二階から降りてきた高島館長が、いつもと変わらぬ隙のない足取りで近づいてきた。私は、遠野の図書館や移動図書館の現状について、彼が一番求めているであろう事実だけを短く切り取って渡した。館長は短く頷き、また自室へと戻っていく。その背中は、私が持ち帰った無形の報告を、彼なりの確かな棚に収めてくれたように見えた。
「千夏さーん! 遠野、どうでした!?」
地下の車庫では、ロマコメ号のコンテナを点検していた鈴木美桜さんが、私を目に留め、弾むような声で駆け寄ってきた。彼女の周りだけは、いつでも空気がくるくると回っている。
「すごく寒かったけど、美味しいものもいっぱいあったよ」
私は、朝霜が降りたレタスの冷たさや、ジンギスカン鍋から立ち上る匂いといった、彼女の心がパッと明るくなるような手触りを選んで手渡した。美桜さんは「いいなー!」と屈託なく笑い、その笑い声が車庫のコンクリートの壁に明るく反響した。
真木副館長に会えたのは、夕暮れ時だった。終日外を回っていた真木さんに「おかえりなさい」と告げる。
「おかえりなさいは、あなたでしょう。なんだか、いいお顔になって帰ってきたわね」
真木さんのふんわりとした、けれどすべてを見透かすような声。私は、手にしたマグカップの縁を指先でゆっくりなぞりながら、言葉を探した。
「あせらなくていいんだって、教えてもらいました。時間を稼ぐこと。悠々として急ぐこと。そんな風な」
真木さんは「そう」とだけ言って、静かに微笑んでくれた。
ふと、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』を思い出す。長い旅から帰ってきた主人公のビルボは、外見はホビット穴に住む元の彼のままだけれど、その心の中には確実に、彼だけの冒険の記憶が火種のように残っていた。私も同じだ。この村の日常の中にすっぽりと収まりながら、遠野で受け取ったあの静かな灯火を、胸の奥で大事に守り続ける。
明日もまた、ロマコメ号のキーを回す。私が吸い込んできた新しい空気を、この村の誰かの隣に、そっと置いていくために。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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