移動図書館日記(115)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

遠野から戻り、数日ぶりに本館の通用口を開けた。紙と埃、それにほんの少しの湿気が混ざったいつもの匂いが、静かに鼻をくすぐる。たった数日不在にしただけなのに、随分と長い間ここを離れていたような気がする。

ああ、戻ってきたな。そんな少しけだるい懐かしさを覚えつつ、私の身体は慣れ親しんだこの場所の空気に、驚くほどあっさりと馴染んでいく。

それが少しだけ、もどかしい。

遠野で吸い込んだあの冷たくて澄んだ空気や、中野文さんとぽつりぽつりと交わした言葉の温度を、ここあん村の日常のペースで薄れさせたくなかったから。

「戻ったか。遠野はどうだった」

二階から降りてきた高島館長が、いつもと変わらぬ隙のない足取りで近づいてきた。私は、遠野の図書館や移動図書館の現状について、彼が一番求めているであろう事実だけを短く切り取って渡した。館長は短く頷き、また自室へと戻っていく。その背中は、私が持ち帰った無形の報告を、彼なりの確かな棚に収めてくれたように見えた。

「千夏さーん! 遠野、どうでした!?」

地下の車庫では、ロマコメ号のコンテナを点検していた鈴木美桜さんが、私を目に留め、弾むような声で駆け寄ってきた。彼女の周りだけは、いつでも空気がくるくると回っている。

「すごく寒かったけど、美味しいものもいっぱいあったよ」

私は、朝霜が降りたレタスの冷たさや、ジンギスカン鍋から立ち上る匂いといった、彼女の心がパッと明るくなるような手触りを選んで手渡した。美桜さんは「いいなー!」と屈託なく笑い、その笑い声が車庫のコンクリートの壁に明るく反響した。

真木副館長に会えたのは、夕暮れ時だった。終日外を回っていた真木さんに「おかえりなさい」と告げる。

「おかえりなさいは、あなたでしょう。なんだか、いいお顔になって帰ってきたわね」

真木さんのふんわりとした、けれどすべてを見透かすような声。私は、手にしたマグカップの縁を指先でゆっくりなぞりながら、言葉を探した。

「あせらなくていいんだって、教えてもらいました。時間を稼ぐこと。悠々として急ぐこと。そんな風な」

真木さんは「そう」とだけ言って、静かに微笑んでくれた。

ふと、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』を思い出す。長い旅から帰ってきた主人公のビルボは、外見はホビット穴に住む元の彼のままだけれど、その心の中には確実に、彼だけの冒険の記憶が火種のように残っていた。私も同じだ。この村の日常の中にすっぽりと収まりながら、遠野で受け取ったあの静かな灯火を、胸の奥で大事に守り続ける。

明日もまた、ロマコメ号のキーを回す。私が吸い込んできた新しい空気を、この村の誰かの隣に、そっと置いていくために。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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