これは、編集プロダクション「ぽんちょ」が、まだ総房地区にあったころの話。あったころと言っても、「あのこと」の影響を受け、陸の孤島と化した総房地区から、東の玄関口・椎名町三丁目へ拠点を移すこととなった、引っ越し前夜のお話。
【登場人物】
古河 モン太郎:編集プロダクション「ぽんちょ」社長。理屈よりも「生のエネルギー」を愛する豪快な男。総房地区を離れることに感傷的。
鶴亀 昌子:「ぽんちょ」社員。引越しの実務を取り仕切る。不要なものを即座に捨てる合理主義者。
千田 千冬:ネイルサロン「サウザンサウザン」オーナー。無駄を嫌う超合理主義者。総房地区に残留する。
【場面設定】
総房地区の雑居ビル。「ぽんちょ」の旧オフィス。引っ越し業者が来る1時間前。床には段ボールが積まれ、ガムテープが散乱している。

鶴亀昌子:社長、そこの段ボール、底が抜けかけています。中身は何ですか。
古河モン太郎:おお、かめちゃん。こいつは俺たちがこの総房で立ち上げた、血と汗の結晶だ。居酒屋の割り箸の袋に書き殴った、伝説のボツ企画の山だよ。
昌子:ただの油まみれの紙ゴミです。トラックの容積を無駄に圧迫し、追加料金が3000円発生します。今すぐ燃えるゴミの袋に入れてください。
モン太郎:冗談じゃねえ! このシミ一つひとつに、俺の演歌魂と、あの頃の熱いグルーヴが刻み込まれてるんだ。これを置いていくなんて、俺の人生のB面を捨てるようなもんだぞ!
昌子:人生のB面は引っ越し業者の見積もりに含まれていません。だいたい、醤油のシミからグルーヴは再生できません。
モン太郎:かめちゃんは冷てえな! この油の匂いを嗅ぐだけで、次のメガヒット企画が降りてくるんだよ!
昌子:降りてくるのは企画ではなく、ゴキブリです。捨てます。
(昌子が段ボールを引っ張る。モン太郎が引っ張り替えし、中身の割り箸の袋が床に散乱する)
モン太郎:やめろ! 俺の魂を持っていくな!
(ドアが開き、千田千冬が入ってくる)
千田千冬:失礼します。階下のネイルサロンの千田です。先ほどから、床を激しく踏み鳴らす音がサロンの静寂な空間設計を阻害しています。
昌子:千田さん、申し訳ありません。社長がゴミへの未練を断ち切れず、物理的な抵抗を試みているためです。
千冬:ゴミへの未練。なんて非合理的な。過去の物質に執着するなんて、未来のタイムパフォーマンスを著しく低下させるだけです。
モン太郎:千冬さんまで冷てえこと言うなよ! この総房を離れる俺たちの、最後のロマンなんだよ。ほら見てみろ、この割り箸の袋の、醤油と手垢が混ざり合った、この完璧なセピア色を!
(モン太郎に突きつけられたからの箸袋を、千冬が受け取り、一瞥する)
千冬:……。
昌子:千田さん、不衛生ですので触らないほうがいいです。今すぐ私がほうきで掃きますから、そこらにポイしちゃってください。
千冬:待ってください。(床にしゃがみ込み、他の割り箸の袋を指先でつまみ上げる)この、酸化した油脂と和紙が融合して生み出した、不規則なブラウンのグラデーション……。
モン太郎:おう、分かってくれるか! セクシャルでダンシングであんたな感じが。
千冬:人工的なジェルネイルでは決して再現できない、有機的で予測不可能な色彩の揺らぎ。そしてこの、居酒屋という過酷な環境を生き抜いた物理的なダメージの蓄積。これは、私のサロンが求めていた「ダメージド・オーガニック」という新しいネイルデザインの、完璧なカラーパレットです。
昌子:カラーパレット?
千冬:ええ。この数千枚に及ぶサンプルがあれば、人間の皮脂と醤油が織りなす経年劣化のパターンを完全にデータ化できます。古河社長、この段ボール、1万円で私のサロンで買い取らせてください。
モン太郎:い、1万円!?
昌子:(持っていたガムテープを取り落とす)……1万円。
モン太郎:がははは! 見たかかめちゃん、俺の魂のB面が、総房の最新ファッションに生まれ変わるんだと!
千冬:ええ、極めて合理的な取引です。では、1枚残らず回収しますので、そこの段ボールを階下のサロンまで運ぶのだけ、お願いしていいですか?
(昌子が虚ろな目のまま、無言で膝から崩れ落ちる)
(幕)
作・千早亭小倉





