【登場人物】
氷上 静:ここあん湖畔のブックカフェ「シズカ」オーナー。
中野 小春:カフェ共同オーナー。
【場面設定】
昼過ぎ。ブックカフェ「シズカ」。客はいない。

氷上静:開かない。
(静、小さなマイナスドライバーをカウンターに置く)
中野小春:どれどれ。また眉間にシワが寄ってるよ。
静:この裏蓋の溝が浅すぎるの。
小春:静ちゃんが不器用なだけじゃないかな。
静:力加減も角度も間違っていないはずよ。
小春:手の感覚だよ。貸してごらん。
(小春、静の手から腕時計とドライバーを受け取る。清潔な布巾で時計を包む)
静:布巾で包むの?
小春:滑り止め。それに傷がつかないでしょ。
(小春、ドライバーの先を溝に当て、軽く手首をひねる。カチッと小さな音が鳴る)
静:あっけないわね。
小春:力ずくじゃダメなんだよ。はい、開いた。
(小春、裏蓋を指でつまみ上げる)
静:ありがとう。あとは私がやるわ。
(静、引き出しから先を保護したピンセットを取り出す。時計の内部を覗き込む)
小春:中身、結構ぎっしり詰まってるんだね。
静:そう。
(静、ピンセットの先でボタン電池をつまみ出し、小さなガラス皿に置く)
小春:おはじきみたい。
静:酸化銀電池よ。
(静、新しい電池を時計のくぼみにはめ込む。ピンセットの背で軽く押さえる)
小春:3時15分。
(小春、時計の文字盤を指さす)
静:何が。
小春:止まった時間。おやつの時間から、15分過ぎたくらいだね。
静:私が止まっているのに気づいた時間。
小春:いい時間で止まってたんだね。
(静、裏蓋を時計の裏に被せ、親指で強く押し込む。パチッと音が鳴る)
静:あとは時間を合わせるだけ。
(静、時計の側面にある小さなリューズを引き出し、壁掛け時計を見上げる)
小春:今、2時40分だよ。
(静、リューズを回して針を2時40分まで戻し、リューズを押し込む。秒針が動き始める)
小春:動いた。
(静、うなずくと、腕時計を左腕に巻き、バックルを留める)
小春:腕に時計がないと落ち着かない?
静:壁の時計を見るより、手元で確認したいの。
小春:几帳面だよね。私は、手首が窮屈なのは苦手だな。
(小春、棚からガラスのキャニスターを取り出す。静がその様子を目で追う)
小春:ビスケット。昨日焼いたやつ。
静:まだ3時前よ。
小春:さっきの時計、3時15分だったじゃない。
静:あれは止まっていた時間よ。今は2時40分。いや、41分。
小春:もうすぐ3時だし、先におやつにしちゃおうよ。
静:勝手な理屈。
(小春、ビスケットを2枚取り出し、小皿に乗せて静の前に置く)
小春:お湯沸かすね。コーヒーでいい?
静:(うなずく)コーヒーがいい。
(小春、電気ケトルのスイッチを入れる。手回しのミルにコーヒー豆を入れる)
静:手で挽くの?
小春:まだ、少し時間があるからね。
(小春、ミルのハンドルを回す。ガリガリと豆が砕ける音が響く)
静:小春。
小春:ん?
静:この時計、秒針の進みが重いみたい。
(静、腕時計の文字盤を見つめる)
小春:わかるの?
静:もう少し見てみないと、わからないけど。
小春:それは、ゆっくりおやつを食べなさいってことだよ。あ、おやつの時間になるのもゆっくりか。
静:機械の不具合よ。
小春:いいじゃない。のんびりできて。
(ケトルから湯気が立ち上る。小春、ペーパーフィルターをドリッパーにセットする)
静:今日一日様子を見て、だめなら時計屋に持っていくわ。
小春:その時は一緒に行くよ。散歩がてら。
静:そうね、お願い。
(静、小皿のビスケットをつまみ、一口かじる)
(幕)
作・千早亭小倉




