
深夜の編集プロダクション「ぽんちょ」は、締め切り間際の独特な熱気に満ちていた。聞こえるのは、パソコンのファンが発する微かな唸りと、誰かのキーボードを叩く乾いた音だけ。その静かな喧騒の中心で、鶴亀昌子——通称かめちゃんは、ゲラの赤字と孤独な戦争を繰り広げていた。
目の下には、三日月のようにお洒落な隈がうっすらと浮かび、デスクの脇には栄養ドリンクの空き瓶が2本、小さな墓標めいて立っている。机の上は、今にも雪崩を起こしそうな資料の山。そして、本来なら1本でいいはずの赤ペンが、キャップが開いたまま数本転がっている。探すより、新しいのを出した方が早いからだ。その無造作な散らばりこそが、進行中の激戦を何よりも雄弁に物語っていた。
そこに、ぬらり、と音もなく現れたのは、居酒屋「ここきた」で一杯ひっかけてきたのか、顔を朱に染めた小説家、徒然士だった。彼は、まるで幽体離脱でもしているかのように現実感のない足取りでかめちゃんのデスクに近づくと、腕を組んで重々しく口を開いた。
「やあ、鶴亀くん。君は実に示唆に富む存在だ。現代日本の労働環境が抱える根本的なほころびと、出版文化の黄昏が、君という一点に凝縮されている。その身を削り、誰かの言葉を商品に変える……実に、実に不健全で文学的な光景だよ」
「先生の筆がもうちょっとだけ早ければ、私がこんな文学的な光景にならずに済むんですけど」
かめちゃんは、モニターから一瞬たりとも目を離さずに言い返す。これがないと始まらないといった、いつもの応酬。だが、その夜の徒然士は、何かが違っていた。彼は、よたっとかめちゃんににじり寄ると、分類不能の希少生物を発見した分類学者さながらに、じっと彼女の顔を覗き込んだのだ。
「……ふむ」
「な、なんですか。セクハラで訴えますよ」
かめちゃんの刺のある物言いなどまるで意に介さず、徒然士は自分の顎に手をやり、うん、うんと哲学者のように頷く。
「驚異的だ……。実に興味深い。君のその目の下の疲労を示す色素沈着、今にもぷつんと切れそうな精神状態を正直に物語る眉間の縦皺。それらはすべて、この『ぽんちょ』の過酷な労働環境という原因に対する、極めて論理的な結果だ。だがしかし、その肌だ! 頬から顎にかけてのこのラインは、ストレスによるコルチゾールの過剰分泌と、それに伴うホルモンバランスの崩壊という、生化学的な鉄則を完全に無視している! この潤いと、きめの細やかさは一体どういうことだね? まるで、精神と肉体が互いに全く無関係であると主張しているようだ。君はデカルト的二元論の生きた証明かね?」
マシンガンのように繰り出される分析に、かめちゃんは一瞬、思考を停止させられた。これは褒められているのか、貶されているのか、それともただの解剖か。
「は、はあ⁉ わけのわからないこと言ってないで、早く追加原稿のプロットを……!」
「いや、これは現代文学が直面する、極めて重要なテーマだよ」と、徒然士の暴走は止まらない。「過酷な現実という名の砂漠で、人は何を失い、何を枯渇させ、それでもなお、何を保ち続けていられるのか。君のその肌は、自明のこととして、その問いに対する一つの答えを提示してしまっている。まったく」
彼はそこで一度言葉を切り、心底からおかしいというように、ふっと息を漏らして天を仰いだ。
「ちょんまげ生えるわ」
呆然とするかめちゃんをその場に残し、徒然士は己の発見に満足したのか、ふらふらと夜の闇に消えていった。後に残されたのは、徒然士が居酒屋「ここきた」から連れてきた焼き鳥と安酒の匂い。そして、自分の頬にそっと触れてみて、わけがわからないと首を傾げる、少しだけ顔の赤いかめちゃんの姿だった。
さて、鶴亀昌子という「歩く二律背反」を発見してしまった徒然士は、その日から、完璧なスランプに陥った。新しい小説のプロットを練っても、登場人物がみんな、彼の分身のように理屈っぽく、予定調和の行動を取ることが気になってしかたがないのだ。
「違う! これじゃない! 人間の面白さとは、AだからBという単純な関係の中にはない! あの鶴亀くんが放っていたような、理屈を超えた生命の輝き、あの矛盾したリアリティが、私の小説にはない!」
書斎で頭を抱える日々が続いた。そして彼は、ある朝、ついに一つの結論に達する。
「——鶴亀くんを、解明する」
それはもはや、新作のための取材ではなかった。真理を探究する研究者の執念だった。彼は「打ち合わせ」と称して、以前にも増して「ぽんちょ」に顔を出し、奇妙なフィールドワークを開始した。
まず、食生活の監視。かめちゃんがデスクで昼食をとる姿を、柱の陰から(本人はそのつもり)観察する。
「(ふむ、今日の昼餉はコンビニのザル蕎麦か。タンパク質、脂質、炭水化物のバランスは……劣悪ではないか? ビタミン、ミネラルも絶望的に不足している。いや、待て。では、あの肌を形成するコラーゲンやエラスチンの源は、一体どこから摂取しているというのだ?)」
次に、愛用ドリンクの特定。かめちゃんがゴミ箱に捨てた栄養ドリンクの瓶をこっそり回収し、スマホでその成分を検索する。
「(タウリン3000ミリグラム配合とな……。ふむ、タウリンが皮膚組織に与える直接的な影響についての学術論文は……、と。偽薬効果の可能性は? プラセボで肌が美しくなるという症例は……、と)」
果ては、周辺への聞き込みにまで及んだ。喫茶「小古庵」で偶然会ったライターの真田まるに、彼は真顔で尋ねた。
「なあ、まるちゃん。ぽんちょの鶴亀くんは、何か特殊なサプリメントでも常用しているのかね? あるいは、月に一度、どこか秘密のクリニックにでも通っているとか」
まるは、コーヒーカップを口に運びながら、心底どうでもよさそうな目で彼を一瞥した。
「ネタになりそうなら、今度張ってみますけど。それって、ギャラ出ます?」
居酒屋「ここきた」では、ママのラブちゃんを捕まえて、核心に迫ろうとした。
「ママさん、あの鶴亀という女は、休みの日は一体何をして過ごしているんだ?」
「あら、徒先生、かめちゃんのこと気になるの?」
ラブちゃんが人の良さそうな笑顔で答える。
「さあ、どうかしらねえ。でも、あんまり男の影はないわよ、あの子は不器用だから。先生、いいじゃない、狙ってみたら?」
本筋とは全く違う、恋路のほうへと話が逸れていく。
一方のかめちゃんはといえば、そんな徒然士の粘着質な視線に気づいていた。気づいてはいたが、「またあの変人小説家が、締切前に煮詰まっておかしくなったんだわ」「私の肌より、自分のプロットを心配すればいいのに」と、いつものように無視をきめこんでいた。彼女にとって、自分の肌のコンディションなど、山積みの仕事に比べれば、どうでもいいことだ。徒然士の異常なまでの執着が、全くもって理解不能だった。
徒然士による一方的な「取材」は、数カ月に及んだ。彼は、「ぽんちょ」のソファでぐったりと眠るかめちゃんの寝顔を眺めながら、ついに一つの境地に達した。
その寝顔は、疲労困憊のはずなのに、やはり、穏やかで、そして肌は滑らかだった。
徒然士の脳内に、天啓のような光が差した。
「そうだったのか。説明できないからこそ、美しいのだ。理由がわからないからこそ、人はそこに抗いがたい『生』の神秘を見る。論理や理屈は、生きた人間を記述するための便利な道具にはなっても、その本質そのものには、決して届かんのだ……!」
彼は、悟りを開いた修行僧のように、静かに立ち上がった。
そうして彼が書き上げた新作『螺旋状のプリン』は、これまでの彼の知的で構築的な作風とは全く違う、登場人物たちが矛盾と欠落を抱えたまま、それでも生き生きと躍動する、人間味にあふれた傑作となった。
編集プロダクション「ぽんちょ」の古河モン太郎社長は、原稿用紙の最後の一枚を読み終えると、しばらく沈黙した後、深く、長く、唸った。
「徒先生、今回のは……なんか、よくわかんねえけど、すげえっすね」
その言葉は、徒然士にとって、どんな文学賞よりも価値のある、最高の賛辞に聞こえた。彼は社長室の扉を見やり、その向こうで今もゲラと格闘しているであろう、自らのミューズの姿を思い浮かべ、小さく、本当に小さく、微笑んだ。
了
作・千早亭小倉








