「あらすじスト」の密かな愉しみ ――例文の余白から、頭の中の映画館へ

国語辞典というものは、本来なら世界を誤解のないようにガチガチに縛りつけるための道具である。いわゆる「語義」や「定義」と呼ばれる部分は、言葉の境界線をきっちりと引き、曖昧さを許さない。

しかし、その堅苦しい定義のすぐ隣に添えられた「例文」を開くと、不思議なことに、世界にはふっと柔らかな「余白」が生まれる。

たとえば、「はしる(走る)」の意味に添えられた、「校庭を走る。」という短い例文。「誰が」「どんな表情で」「何の目的で(あるいは、何からか逃げるように)」走っているのかは、どこにも書かれていない。

10歳の頃の僕は、小田急線の車内でふたつの辞書を開き比べながら、その書かれていない「余白」に、自分だけの物語や人物像を詰め込んで遊んでいた。定義が「正解」を示すものだとすれば、例文は「想像を許してくれる自由な隙間」だったといえる。

数年後、映画好きの高校生となった僕は、一冊の本を手に入れた。キネマ旬報社が出した『アメリカ映画作品全集』。この本、何がすごいって、戦後から1971年末までに日本で公開されたすべてのアメリカ映画が、「あらすじ」とともに紹介されていたのだ。「すべて」っていうのがすごい。僕は、映画館で観た映画、テレビで放映された映画など、気になる映画があれば、気の向くままにページをめくった。頭から読むようなものではなかった(何度か試してはみたけれど、いつも長くは続かなかった)。『アメリカ映画全集』は、数十年経ったいまも、本棚の隅で、ほかの映画関係の本と一緒に並んでいる。手に取ることは、もうほとんどなくなってしまったけれど。

高校生のときは考えもしなかったけれど、ふと思ったのだ。あの『アメリカ映画全集』は、小学生の僕にとっての国語辞典と同じものだったのではないかと。あらすじと例文って、自分が好きというだけでなく、何か共通点があるんじゃないかな、と。

あらすじには、「1分でわかる○○」といったタイパ、効率主義的な安易さや、あらすじを伝える人の恣意的なミスリードに乗せられる危険などから、良い印象を持たない人もいるかもしれない。確かに、小説にしろ、映画にしろ、全編を読む、観ることに比べれば、それはどこか「手抜き」を感じさせなくもない。

しかし、あらすじには、別の醍醐味がある。その「不完全さ」だ。

たとえば、ここに観たことのない映画の短いあらすじ文があったとしよう。映画を一本丸ごと鑑賞する体験が受動的なものになりがちなのに対し、提示されたわずか数行のあらすじを読むとき、僕たちは自由にその映画の筋立てを、映像を、音楽を、思い描くことができる。もちろん、完成された作品が「正解」だ。その正しさはもちろん何より優先されるべきものだ。けれど、堅苦しい定義の隣にあった例文のように、正解の外側にぽっかりと空いた余白にこそ、自分だけの「ものがたり」が芽生える。数行のあらすじを手がかりに、まだ見ぬ映画の輪郭を自分なりに補っていく時間は、鑑賞とはまた別の、贅沢な創作行為なのだ。

もしも世の中に、「あらすじスト」なんてへんてこりんで愛おしい肩書が存在するのなら、私は喜んで名刺の肩書にそれを刷り込みたいと思う。

千早亭小倉

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