これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
今日の巡回先は、ボストー区の復興住宅エリア。ロマコメ号のオーニング(日よけテント)の下で貸し出し準備をしていたら、常連のおかあさんから集会所の中に招かれた。
「外、寒いでしょう?」
「ここで、あったまっていくといいさ」
「寒くなってきたねえ。この間まであんなに暑かったのに」
いつもの利用者さんたち。その会話は、やがて「冬の暖房」の話題に移っていった。私の頭の中の索引が、また勝手に動き出す。
『分類:生活』『キーワード:高齢者、暖房器具』と。
「エアコンの風は体に悪い」とか「石油ストーブが一番だ」とか、そういう話になるに違いない。私の書棚にある「お年寄りの暮らし」のファイルには、そう分類されている。
でも、聞こえてきたのは、私の予測を裏切る言葉たちだった。
「どの仮設もエアコンがあるからいいよな。乾燥したら、飴玉なめればいいんだよ、のど飴」
「俺は朝、水をいっぱい飲むぞ。それが一番」
私の築いた秩序は、カタンと音を立てて揺れた。分類エラー。彼らは「エアコン嫌いなお年寄り」という分類記号なんかじゃなく、ただ、今の環境の中で、自分なりの快適さを見つけている「個人」だった。
ふと、向田邦子さんのエッセイを思い出した。『父の詫び状』だったか、彼女が描く人々は、決して「昔の人」という一つの型にはまらない。強情だったり、見栄っ張りだったり、妙なこだわりがあったり。しがらみの中でも、個性的で自分だけのルールを大切に生きている。今、目の前にいるこの人たちも同じだ。「のど飴」という具体的な解決策。「俺は水だ」という、誰にもすぐに真似できる、その人なりの知恵。私の狭い分類棚には収まりきらない、豊かで厄介な生きた物語。
「のど飴、何味が好きですか?」なんて、厚かましく話の輪に飛び込めるはずもなく、この日の私も、黙って相槌を打ちながら、ノートに貸出記録を書き込むだけだ。
こうして人の「声」を聞くのは、少し怖い。自分の先読みの傲慢さを思い知らされるから。でも、それ以上に、どうしようもなく、楽しい。私の知らない物語が、この世界にはまだ、こんなにたくさん溢れている。業務日報には書けない。この、あたたかい分類エラーの瞬間。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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