これは、日記という名を借りた私の記憶。
某月某日
湖畔。約束の時間よりも、ずいぶんと早く着いてしまった。私の体内時計は、「余裕」が欲しくて、癖のある動き方をする。遅れるストレスで痛みを感じないようにと。
車のエンジンを切って外に出ると、肌を刺すような風。もう、ストーブの火が恋しくなる季節だ。
目の前に広がる、ここあん湖。かつて大学のキャンパスがあり、完璧な区画整理とアカデミックな規律が存在していた場所。今は、ただ静かに水を湛えている。
ぼんやりと水面を眺めながら、先日、ここで出会った男性の言葉がふっと浮かぶ。
「そこ、俺んちの玄関だったところ。もうノックはいらないからね」
彼は、何もない水面の一点を指差して、少しだけ口の端を上げてそう言った。
――ノックはいらない。
その言葉を聞いた時、私の頭の中の分類棚が一瞬、エラーを起こした。「玄関」とは、内と外を隔てる境界線であり、守るべき防衛線の象徴だ。けれど、彼の言葉は、その堅固な扉を、軽やかな冗談で溶かしてしまった。悲壮感ではなく、どこか突き抜けたような明るさ。
イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』が頭をよぎる。マルコ・ポーロが皇帝に語る、無数の都市の姿。都市とは、石や木でできた形あるものだけではない。目に見えない関係性の糸や、記憶の集積でできているのだと。
今日、ひとりでその場所を探そうとしたけれど、どうしても見つけられなかった。湖面には目印も、座標軸もない。水面の下にあるはずの、無数の「玄関」。もう誰もノックする必要のない、開かれた場所。不思議と焦燥感はなかった。
寒さでかじかんだ指先をこすり合わせながら、私はただ、その「見えない玄関」があるはずのあたりを、もう一度だけ眺めた。
風の音だけが、静かに湖面を渡っていった。
これは、日記という名を借りた私の記憶。
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