移動図書館日記(72)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

某月某日

冬の湿った空気が、ロマコメ号の白いボディを薄く覆っている。午前十時、東風公園の入り口に車を停めた。ドライバーのHさんがサイドブレーキを引くカチカチという音よりも早く、馴染みのある笑い声が耳に届く。

おばあちゃんたちが三人、日向の縁石に並んで座っている。厚手のカーディガンを重ね着して、縮こまった背中を冬の低い光に預けている。どこかへ行くついででも、買い物のついででもない。ただ、この車が来る時間を、彼女たちの生活のリズムの中で逆算して、待っていてくれたのだと思う。

「ちなっちゃーん、遅い、遅い」

一人が立ち上がり、右手の重みを左膝に預けながら、ゆっくりと近づいてきた。指先は冷えて少し赤くなっていて、爪の間にさっきまで庭をいじっていたのか、乾いた土が薄く残っている。その手が私の差し出した消毒液のボトルに触れ、冷たい液体の感触に少しだけ肩をすくめた。

ハッチを開くと、狭い場所に押し込められていたような本の匂いが、外の湿った空気とぶつかって攪拌される。彼女たちはすっかり慣れた様子で棚の本を目で追っていく。一人が選んだのは、北欧の刺繍の図案集。もう一人は、古い暮らしの知恵を編んだエッセイ。背表紙をなぞる指の動きは、川の水の温度を確かめるように慎重で、けれどとても穏やかだ。

「あのこと」の直後、私たちは次に何をすべきか、誰に指示を仰げばいいか、そればかりを考えていた。呼吸をすることさえ、正しい手順が必要な気がして。けれど、今は違う。オーニングの下、魔法瓶のカチッという蓋の開く音と共に、ほうじ茶の香ばしい匂いが漂う。

「この前のカボチャ、煮ても全然柔らかくならなくてねえ」

「あら、それはお水が足りなかったんじゃないの?」

そんな会話を横耳で聞きながら、私は返却された本の角を指先で整える。ページには、小さなクッキーの屑が挟まっていたり、隅がわずかに折れていたりする。それは、この本が誰かの生活の、指先の届く場所に確かに存在していたという証拠だ。

ふと、石井桃子さんの『ノンちゃん雲に乗る』を思い出した。雲の上の世界は、現実とは違う静かなルールで動いているけれど、そこから見える地上の景色は、いつだって懐かしくて、少しだけ心細い。ロマコメ号も、この村の中では、そんな小さな雲のような場所なのかもしれない。

借りていく本を選び出し、のんびりと話を終えた彼女たちが、本を胸に抱えて帰っていく。アスファルトの上を、靴のゴム底が小さく擦れる音が重なる。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、私はただ、冷たくなった手をエプロンのポケットに入れて見送っていた。

特別なことは何もない。ただ、本を選んで、少しだけ話をして、帰る。その当たり前の動作が、今の私には、何よりも確かな地層のように、この土地に重なっていくのを感じている。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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