移動図書館日記(88)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

三月。窓を少しだけ開けると、冬の名残を含んだ冷たい風が、本館の真新しいカウンターをさっとなでていった。外では、児童担当の北条くんが子どもたちを追いかけて、春の光のような明るい声を響かせている。その様子をまぶしく眺めながら、私はロマコメ号の準備のために立ち上がった。

午後の巡回先は、克枯地区の集会所。中に入ると、坂上さんが地元の人たちと楽しそうに笑いながら、大きなポットでお茶を用意してくれていた。私は長机にいつものスタンプや名簿を並べ、自分の居場所を整える。

小柄なおばあちゃんが、三冊の本を抱えてやってきた。使い込まれた布の袋から、一冊ずつ、宝物を取り出すように本を出して机に置く。「いつもありがとうね」と笑う彼女の指先は、冷たい水で洗ったばかりなのか、少し赤らんで、しっとりと濡れていた。

貸し出しの手続きを終えた彼女が、帰りがけにふと足を止めた。視線の先には、誰かが持ち寄った古いお雛様。少しだけ衣装の色が落ち、顔立ちも穏やかに古びている。おばあちゃんは、そのお人形たちの前で足を揃え、静かに目を閉じた。

胸の前で、節の目立つ両手をそっと合わせる。カーディガンについた小さな毛玉が、ストーブの熱でゆらゆらと揺れていた。彼女のまあるい背中を見ていると、私の喉の奥に、言葉にならないあたたかい塊が降りてくるのを感じた。

この村に暮らす人たちの沈黙には、私たちが決して土足で踏み込めない、深い湖のような時間がたまっている。坂上さんが淹れてくれたお茶の香りが、しんとした集会所の隅っこまで広がっていく。

ふと、安房直子さんの『ひぐれのお客』を思い出した。どこか懐かしくて、ふしぎで、でもすぐそばにある日常を慈しむような、あの物語の匂い。あのお雛様も、おばあちゃんの祈りを、春の雨のような優しさで受け止めているのかもしれない。

しばらくして、彼女はゆっくりと目を開け、もう一度だけ私に小さく会釈をして、光の射す出口へと歩いていった。

私は、日報の白い欄に「貸出三冊」という数字だけを書き入れた。分類の棚には決して収まらない、あの柔らかな背中の重みを、胸の奥の座標にそっと書き留めながら。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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