移動図書館日記(100)

これは、日記という名を借りた私の記憶。

春を待つ風が少しだけ冷たいけれど、ひだまりの中で昼寝をしたら気持ちよさそうな、静かな午後。

図書館車のハッチに描かれた「みちくさ」というひらがな文字。その柔らかな凹凸を愛おしそうになぞる、おかあさんの指先。

「ここで本を借りると、ついついやることほったらかしで読んじゃうのよね」

そう言って、いたずらっぽく笑う彼女と目が合った。声に出した言葉のさらに奥にある、もっと深くて、名前のつかない「何か」を、視線だけで静かに手渡されたような気がした。

――おかあさんのみちくさ。

「いま、開けますね」

ハッチをゆっくり押し上げる。私の様子を、おかあさんが静かに見ている。もう一度目が会う。口をきゅっと結んだおかあさんの頬に小さなくぼみができた。それは、耐えるとかがんばるとかとは違う、ただ、気持ちがほどけ過ぎないように一度だけ結び直すような、ささやかで愛らしい「しるし」に見えた。彼女の中の時計の針が、別の時間を刻み始めたのがわかる。

夕飯の支度や賑やかな生活の音で、このあといっぱいになっていく、少し前。このひとときは、「みちくさ」のままでいい。

遠くで子どもたちが駆け回る高い声が、栞のように午後の静寂から飛び出していた。そういえば、以前、学校帰りの子どもたちも、この「みちくさ」という言葉に興味をひかれていたな。みんな元気でいるだろうか?

ミヒャエル・エンデの『モモ』の表紙を思い浮かべる。時間を効率よく使おうとして、本当の時間を失ってしまう人々。でも、ここにはいま、自分自身の時間を自分の手に取り戻した、おかあさんの指先がある。

誰かにとっての「みちくさ」が、明日を生きるための小さな綴じ目になる。その瞬間に立ち会えたなら、私の今日という一日も特別なものになる。

これは、日記という名を借りた私の記憶。

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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