移動図書館日記(106)遠野編

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

あえて旧道の峠道を選んだ。バイパスの単調な景色を嫌って。助手席には菜箸千夏さん。彼女の「優等生」な横顔をからかってしまったことを反省する。少しの気まずさが、エンジンの振動と共に私の指先に伝わってくる。

窓の外、岩手の山々は緑の気配を濃くしていた。いや、まだその準備段階だろうか。初夏と呼ぶにはまだ早い。

私はふと、彼女に打ち明けた。

五月の終わりから六月にかけてのこと。山々の緑があまりに鮮烈で、生命の輝きが葉と葉の間、枝と枝の間を縫って溢れ出したような様を見たとき、気づいたら涙をこぼしていたことを。震災ともボランティアともおそらく関係のない、ただ、私という個人がこの美しさに圧倒された瞬間。

千夏さんは、すぐに返事をしなかった。場を埋めるように「わかります」と口にする人が多いけれど、彼女が「共感」のテンプレートを使うことはなかった。ただ、新緑に目を細め、「本当に、突き刺さるような緑ですね。これがもっと……どこまで」と、その光景を分かち合うように呟いた。安易に「わかる」と言わない彼女のその誠実さが、私は好きだ。

言葉を選ぶ、そんな彼女に重なる、ひとつの記憶が蘇ってきた。

東北でボランティアを始めてまだ間もない頃だ。その日は、仮設団地の集会所が溢れかえるほど、人々が集まっていた。東北出身の有名な女優さんが開いた朗読会。いくつかの短編を土地の言葉を交えながら読み終え、話を聞きにきていた人たちと座談になった。「海がにくい」「海は怖い」そんな重たい言葉も聞かれ、重くなった空気の中に、その女優さんは真っ直ぐな言葉を投げ入れた。

「でも、海は宝でしょう」

その瞬間、私の背筋にひやりとしたものが走った。なんて鋭い、危うい言葉を口にするのか。傷ついた人たちの前で、それは暴力になりかねないのではないか――。けれど、集会所の空気は、私の危惧を裏切るようにふっと和らぎ、最後には柔らかな笑いが満ちたのだ。

「その女優さんの言葉、千夏さんはどう受け止める?」

私の問いに、彼女は少しの沈黙のあと、ゆっくりと、物語を読み解くように話し始めた。

「言葉そのものに力があるのではなく、その女優さんと皆さんが笑い合った時間の器が、その言葉を『宝』に変えたのかも。もし、何の土台がない場所で私が同じことを言えば、それはただの礫になって、誰かの心を打ち砕いてしまって……。言葉も時間も、中身が空っぽの器ですね……あっ」

千夏さんは、「あっ」と言ったあと、「すみません、偉そうに」と小さく呟いた。千夏さんの答えを聞いて、私は自分の臆病さを彼女に伝えた。

「全然。私はね、あの時、彼女が言葉の刃でみんなを傷つけたんじゃないかって、怖くてたまらなかった。でも、目の前で起きたのは、笑いだった。正しさなんて、あの場所には必要なかったのかもしれないわね」

そう言いながら、私は内心で自分を恥じた。千夏さんがどんな「正解」を出すのか、まるで試験監督のように彼女を試していた自分に気づいたからだ。そもそも、正しさなんてないはずなのに。彼女の若さを「優等生」という言葉で定義して、自分の引き出しの奥にある重たいわだかまりを、彼女の知性に肩代わりさせようとしていたのかもしれない。私は、彼女を試すことで、自分を守ろうとしただけなのだ。

沈んだ空気を払うように、最近、近所のおばあちゃんから聞いた話を千夏さんに聞かせた。

昔、おばあちゃん曰く「娘っ子」だったころ。こんな峠道を、舗装なんてもちろんされていない時代に何時間も歩いて、海沿いの町の夏祭りに行ったのだという。

「こんな険しい山道を歩いて海まで行くなんて、人間って本当にしぶといわよね。浴衣よ、下駄や草履よ。それがいまや舗装されて、それでもこんなにくねくねして、私たちを難儀させる。自然も人間も、本当にすごくて、少しおかしい」

私がそう言うと、千夏さんはようやく表情をほどいて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

くねくねとした道は、まだ続く。目的地に着くことよりも、この揺れの中に身を置いていることの方が、今の私には必要な気がした。

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

中野文

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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