アスファルトが八月の陽光を照り返している。
東風公園応急仮設住宅の集会所。首を振る扇風機の音と、数人の子供の声。それ以外は沈黙だった。
氷上静はパイプ椅子に浅く腰掛け、その沈黙の中にいた。
ここあん村を襲った「あのこと」から数年。母の冬子に連れられて学習支援ボランティアに来るようになって、数カ月が経つ。
テーブルを挟んだ向かい側で、少女が画用紙に鉛筆を走らせていた。記録ファイルには「水野なお。11歳。遠縁の親戚と同居」とある。静は、「あのこと」でなおが両親を失ったという記述を何度か指でなぞった。
少女――水野なおは無言のまま描いている。宙に浮かぶ家々と、その下を同じ方向へ歩く顔のない人々を。
「この人たちは、どこへ行くの」
静はノートから顔を上げ、平坦な声で尋ねた。
なおは顔を上げず、小さな声で答える。
「わからない。でも、行かなきゃいけないの」
「なぜ」
「みんなが行くから」
「みんな、とは誰?」
なおの手が止まった。鉛筆の芯が画用紙の同じ位置に留まり、小さな黒い点が広がる。なおは視線を落としたまま、口を引き結んだ。
「世界は、理不尽な法則で動いている。あなたの描くこの絵のように」静は続ける。「理由もなく家は宙に浮き、人は歩き出す。大切なのは、その中であなたがどこへ向かうか、あなた自身が選ぶこと」
なおの肩が沈む。画用紙の端を押さえる指先に力が入り、紙の端がわずかに折れ曲がった。
ガタガタと音がして、集会所の引き戸が開いた。青色の業務用エプロンをつけた鈴木美桜が入ってくる。移動図書館ロマコメ号の担当だ。
「みんな、おまたせー! 今日は面白い絵本、持ってきたよー!」

静と目が合ったからか、美桜は、静となおのほうに真っ直ぐ歩いてきた。美桜がなおの背後に回り込み、なおの絵を覗き込む。
「うわ、すごいね、なおちゃん。この人たち、お空の散歩かな。気持ちよさそう」
静は無言のまま、美桜を一瞥した。
「違う」
なおが、顔を上げて言った。
「この人たちは、帰る場所がないの。ずっと、ずっと歩いてるの」
「そっか」
美桜は、なおの隣のパイプ椅子を引き、腰を下ろした。静のように問いを重ねることはしない。ただ並んで、同じように画用紙を眺めている。
「そっか」美桜がその言葉をもう一度繰り返す。「……ひとりぼっちは、さみしいもんね」
扇風機が首を振る。
なおの目から水滴が一つ、画用紙の上に落ちた。顔のない人々の列の横に、不規則な丸い染みができる。
美桜は少しだけ肩を跳ねさせた。
「あ、ごめん! 私、なんか変なこと言った?」
なおは俯いたままだ。美桜は頭をかき、言葉を継ぐ。
静は何も言わない。眉根を寄せて、顔を伏せる。
「あのね、私が好きなバンドのボーカルがね、ライブのMCで言ってたんだけど、『あたいたちは、迷子の天才だ!』って。意味わかんないでしょ? でもね、なんか、グッときちゃって」
なおが画用紙から顔を上げた。真っ直ぐに美桜を見ている。
「それ、なんていう、バンド?」
「え? あ、えっとね」
美桜はなおのほうに身体を少し傾け、耳元で言葉をささやいた。なおの口元が緩む。
「嘘だぁ、なにそれ、変な名前」
静は、パイプ椅子の背もたれから背を離した。
手元のノートには、先ほど自分がなおに向けて言った言葉のメモが、等間隔の文字で並んでいる。静は、そのノートと、なおの画用紙に落ちた不規則な形の染みを交互に見た。
なおは美桜の方を向いて、まだ少し笑っている。 静は口を開きかけたが、音は出なかった。開いたノートの上にボールペンを置き、両手を膝の上で組む。
扇風機がこちらを向き、ぬるい風が静の頬を通り過ぎていった。
(了)
作・千早亭小倉
氷上静は、幼い子どもとのやり取りでいろいろ苦労するようで、この他にも、「ほっとけないさ」という掌編(『コンセプト・ハイ[3]あるある』収録)があります。
「ほっとけないさ」の舞台は、学習支援ボランティア先の集会所周辺の坂道です。
ボランティアを終えた氷上静は、集会所で何度か見かけた小学校低学年の男の子に呼び止められます。男の子は『しろくまちゃんのほっとけーき』の絵本を抱え、「この本、どこが面白いの」と静に尋ねます。静は直接的な答えを出す代わりに、暗い土の中で雨や太陽の光を待って花を咲かせる「小さな種」の短い寓話を優しく語って聞かせます。
しかしその直後、ボールを追ってきた別の少年が激突し、男の子は転んで絵本を落とし、泣き出してしまいます。普段は物事を論理的な「データ」や「現象」として処理する冷徹な静ですが、この予期せぬ物理的で生々しい現実(怪我と泣き声)を前に一瞬フリーズしてしまいます。
それでも彼女は、男の子に真っ白なハンカチを握らせ、汚れた絵本を綺麗にしてから、男の子の小さな手に自分の手を重ね、「……痛いでしょうね」と、自分でも驚くようなぎこちない共感の言葉を絞り出します。「冷たい批評家」という印象の氷上静が、子供の涙や生々しい痛みに直面し、不器用ながらも温かな人間性を見せる、非常に印象的で美しい掌編です。(千早亭小倉)
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