【登場人物】
黒崎 文(A組):ここあん高校文芸部部長。文学の魂と正確な言葉の定義を絶対視する。
神崎 一樹(A組):文芸部員。人間の心理や行動を分析するが、黒崎には常に怯えている気弱な少年。
天野 光(A組):女子バスケ部。感覚で言葉を受け止める、快活な全肯定ガール。
月読 リノ:国語科教諭。文芸部顧問だが、極度の面倒くさがり。
【場面設定】
梅雨の時期。珍しく肌寒い放課後。ここあん高校、ペンタ下層階の文芸部室。部屋の隅には古い石油ストーブが置かれている。最後列の長机の下には、丸まった古い毛布のようなものが転がっている。

天野光:(やかんを手に持ちながら)あー、外すっごく寒かった! 文ちゃん、ストーブの上で、お湯沸かしていい?
黒崎文:ストーブ? 光、いったい今、何月だと思っているんだ。(読んでいた文庫本から目を上げ、鋭く睨む)そして、お前のその無自覚な言葉の乱れ、どうにかならないのか。
光:え? 言葉の乱れ?
文:沸かすのは「水」だ。すでにお湯であるものをさらに沸かせば、気化して蒸発するだけだ。結果と過程を混同するな。
光:あー、言われてみれば確かに。でも、みんな「お湯を沸かす」って言うよね?
神崎一樹:(ノートPCから顔を上げ、おずおずと)あ、あの、部長。光さんのその言葉の使い方、言語学的には破綻していないと思うんですけど。
文:(一樹を睨みつける)なんだと?
一樹:ひっ。えっと、それは「生産動詞」を使った、結果目的語の構文、ですよね。「家を建てる」や「穴を掘る」と同じ構造の。
光:せいさんどうし? 恋人同士的な?
一樹:はい、あ、いいえ、あ、動詞です。恋人ではなくて。家は、建てる前は木材だし、穴は、掘る前はただの地面ですよね。だから、行為を加える対象じゃなくて、行為の結果として生み出されるものを、あらかじめ目的語として提示しているというか。情報を圧縮した、すごく効率的で合理的なシステムなんじゃないかと。
光:わあ、一樹すごい! じゃあ、「ごはんを炊く」もそうだよね。生のお米を炊く、じゃないから。なんだか、おいしいおにぎり食べたくなってきた。
一樹:そ、そう、なりますね。えっと、なりますか? あの、一度にふたつのこと言うの、やめてもらっていいですか?
文:(机を強く叩く)効率や合理性で言語を測るな! それでは文学が死ぬ!
一樹:(肩をビクッと跳ねさせ)し、死なないですよ。ただの文法の話ですから。
文:冷たい水が徐々に熱を帯び、やがて気泡を生じて湯へと変容していく。その時間の「間」とプロセスにこそ、物語の魂が宿るのだ。結果だけを先取りするような性急な言葉遣いは、その魂を省いている。
光:でもさ、文ちゃん。「お水を沸かす」って言うより、「お湯を沸かす」って言ったほうが、なんだか言葉にする前からあたたかい気がしない? 最初からポカポカしてるっていうか。
文:……。
一樹:(キーボードを叩く手を止め、少し身を乗り出す)な、なるほど。物理的なプロセスを飛ばして、心理的な体感温度の先取りを優先した表現。それ、データとしてすごく興味深いです。
文:(深くため息をつく)もういい。水でもお湯でも、勝手に沸かせ。そして、早くあたたかい紅茶を淹れろ。
光:はーい!
文:コンロを使え。
(天野光がやかんに水を入れ、給湯スペースのコンロにかける。その時、最後列の長机の下にあった毛布がもぞもぞと動き、ジャージ姿の月読リノが顔を出す)
月読リノ:ふぁあ。なんだお前ら、うるさいな。なんの話だ。
一樹:わっ。
文:ツキヨム、いつからそこにいたんだ。
月読リノ:なに、あんたたち、生産動詞の話してた? 私の夢が、途中から大きな穴にお湯を注ぐ悪夢に侵食されたぞ。生産動詞といえば、「ふとんを取る」もそうだな。ふとんになって寝るわけだ。じゃ、おやすみ。
(月読リノ、再び毛布を頭まで被って床に丸まる)
一樹:えっと、それは生産じゃなくて、ただの物理的な取得というか。
光:ちがうよ、それ、方言だよ。「ふとんを取る」って、「ふとんを敷く」ってことだよ、確か。
文:どうでもいい、紅茶はまだか。
(黒崎文は再び本を開き、神崎一樹は小さく息を吐いてタイピングを再開する)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)






