【登場人物】
徒 然士:ここあん大学日本文学科講師。完璧な様式美を信奉する、気難し屋の文芸評論家。
鍋島 潤:ここあん大学日本文学科講師。民俗学が専門。書物より「生活の中の生きた言葉」を大事にする現場派。
【場面設定】
ここあん大学早稲田サテライトキャンパス。静まり返った日本文学科の講師控室。

徒然士:(パソコンの画面を睨みつけ、呻き声を上げる)うぬぬぬ。屈辱だ。これは切腹よりも耐え難い儀式だよ。
鍋島潤:(紙コップのコーヒーを持ちながら)どうしました、徒然先生。パソコン相手にずいぶんと物騒なことを。
徒然士:徒だ。大学の教務サーバーにログインするための画像認証を見たまえ。「ぶりんこ」だぞ。日本語の奥ゆかしさも様式美も粉砕するこの無教養な響きを、私のキーボードで入力しろというのか。
鍋島:「ぶりんこ」。いいじゃないですか。泥臭くて、民衆の生活に根ざした躍動感がありますよ。
徒然士:君の野暮なこじつけは聞き飽きた。断じて入力せん。更新ボタンを押して、別の文字に変える。
(徒然士、マウスを力強くクリックする)
徒然士:(のけぞる)なっ。「べろりん」! 「べろりん」だと? ちょんまげ生えるわ。先ほどよりさらに知性が後退しているではないか。
鍋島:そうでしょうか。舌という身体器官を用いた、極めて直接的で生きた表現とも言えるのでは。私は評価しますよ。
徒然士:君の評価など聞いていない。ええい、もう一度だ。
(徒然士、マウスを激しくクリックする)
徒然士:(小声で)「おさわり」。
鍋島:どうされました? 徒然、いえ、徒先生。(そう言いながら、徒然士のPC画面を覗き込む)おさわり。ほう。
徒然士:何を感心したような声をあげているのだ、君は。これは、大学運営サイドの明確な悪意だ。デジタルという名の野蛮な権力が、私にハラスメントを働いている。入力ハラスメント!
鍋島:先生、画面に赤字で「あと一回変更するとアカウントがロックされます」と出ていますよ。大学やデジタルの悪意はともかく、次で決めないと、シラバスの登録ができません。
徒然士:くっ。まったく納得いかんが、やむをえぬ。次こそ、せめてもののあはれを感じさせる文字列を。
(徒然士、祈るようにマウスをクリックする)
徒然士:ん? 「か」「ん」「ざ」……ううむ、「き」か。「かんざき」。
鍋島:おお、ようやく、なんということもない文字列が出ましたね。
徒然士:なんということもない? かんざき、神崎、神崎志乃さん。
(徒然士の顔の強張りがみるみるうちに解け、だらしない笑みが浮かぶ)
鍋島:先生。突然、締まりのない顔になりましたけど。(鍋島が、徒然士の前のモニター画面に顔を寄せる)
徒然士:寄るな、けがらわしい! か、ん、ざ、き。(キーボードを滑らかに叩く)この四文字には、小古庵の温かい照明と、すべてを受け入れる深い包容力が宿っている。完璧な様式美だ。ッターン。
(徒然士、エンターキーを勢いよく叩く)
鍋島:あ。
(画面が切り替わり、「アカウントがロックされました」という警告が赤字で表示される)
徒然士:な、なぜだ。私は今、愛と情熱をこめて、「かんざき」と打ったであろうに。ふだんであれば、「k」「a」のキーさえ叩くのをためらうものを。
鍋島:失礼。さっき横から見ていたのですが、画面の表示、「かんざき」ではなく、「かんざも」ではなかったかと。
徒然士:かんざも。
鍋島:情念で目が霞んだのでしょう。ロック解除の申請は、教務課の窓口へどうぞ。教員証とマイナカードが必要です。
徒然士:詳しいじゃないか。さしずめ、君も、己の都合の良い幻覚によって粉砕された先人と見たが。
鍋島:ひらがなが読めない人に言われたくないです。
(徒然士、頭を抱えて机に突っ伏す)
(幕)
作・千早亭小倉
![[公式]箱庭の語り部 千早亭小倉](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)



