第19話「幸福の描き方」

地獄のような観測の果てに僕が手にした「幸福の設計図」。それをもとに、僕は再び白紙の原稿用紙と対峙していた。黒崎部長の命令は明確だ。「回復のプロセス」を描け、と。

だが、それは言うほど簡単なことではなかった。

僕の脳は、レポートに記した分析結果――「状態A(失敗)→外部介入(肯定)→状態A’(より高いレベルでの正の反応)」という無機質な数式――を、血の通った物語の風景へと変換できずにいた。

『少女はシュートを外した。仲間が彼女を励ますと、彼女はすぐに元気になって笑った』

これでは、ただのあらすじだ。物語ではない。僕の指は、進むことも退くこともできず、ただ宙を掻いていた。

数日後、僕は、なけなしの勇気を振り絞り、書き上げた数ページの原稿を文芸部に提出した。冒頭、主人公が恋人と過ごす幸福なシーンの、改稿版だ。

「……ほう。幸福とやらの正体は、見えたのかね」

黒崎部長は、いつも通りの侮蔑を滲ませた声で原稿を受け取ると、すぐにその文字を追い始めた。隣では、天野さんが「できたんだ! すごい!」と、手放しで僕の成果を褒めてくれている。その純粋な期待が、僕の罪悪感を刺激した。

やがて、読み終えた部長が、深々と、心の底からうんざりしたような溜息をついた。

「……一樹。君は、致命的に分かっていないらしいな」

「え……」

「君が書いたのは、物語ではない。被験体の観察記録を、三人称に書き換えただけの、退屈なレポートだ。登場人物の行動原理を、ご丁寧にも地の文で解説してどうする。これは、読者の感情を分析する精神科医のカルテか?」

的確な、あまりにも的確な指摘だった。僕は、天野さんの「回復のプロセス」を、そのまま小説のキャラクターに当てはめて描写してしまったのだ。そこには、僕自身の言葉も、創作としての飛躍もなかった。

黒崎部長は、言い終えると同時に、原稿をゴミでも払うかのように僕の方へ押しやった。僕が俯くのを見た天野さんが、慌ててその数ページを手に取る。そして、部長が僕を値踏みするように見ている、そのわずかな沈黙の間に、彼女は必死に文字を追った。

僕が反論できずにいると、天野さんが、僕を庇うように口を開いた。

「そ、そんなことないです! 私、このシーン、好きだよ? なんだか、すごくリアルで……」

「リアル、だと?」

部長の冷たい視線が、天野さんに突き刺さる。

「バスケ部。君は、自分の行動を逐一分析され、その心理構造を白日の下に晒されることが、そんなに嬉しいのかね。それは、幸福か?    私には、ただの冒涜にしか見えんが」

「ぼうとく……?」

きょとんとする天野さん。彼女は、この原稿が自分をモデルにしていることを、頭では理解しているはずだ。だが、実際に文字として「解剖」された自分自身の姿を読むという行為は、全く別種の体験らしかった。彼女は、僕が提出した原稿を手に取り、今度は、ページの中の少女を、自分自身として、改めて読み始めた。

そして。

数分後、彼女の顔から、すっと表情が消えた。

「……ねえ、神崎くん」

静かな、僕が今まで一度も聞いたことのない、温度の低い声だった。

彼女は、原稿の一節を、指でなぞっていた。

「この、主人公の女の子……。シュートを外して、すごく悔しがってる。でも、『仲間を不安にさせないために、無理に笑った』って書いてあるけど……」

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に、いつもの太陽のような輝きはなかった。

「……どうして、そんなこと分かるの?」

ぞくり、と背筋が凍った。

僕の異常性が、彼女の心の、最も柔らかな部分に触れてしまった。

「違うよ」

彼女は、静かに首を振った。

「私は、無理して笑ってなんかない。仲間が励ましてくれたから、本当に嬉しくて、元気が出たから、笑ったんだよ。それだけだよ。どうして、そんなに……難しく考えるの?」

彼女の声は、震えていた。それは、怒りというよりは、深い悲しみに近かった。

「神崎くんの書くものは、すごいと思う。黒崎部長の言ってることも、きっと正しいんだと思う。でもね」

彼女は、僕の原稿を、そっと机の上に置いた。

「こんなふうに、人の気持ちを勝手に決めつけて、分かったような顔をするのは……私、嫌いだな」

それは、彼女が僕に放った、初めての、明確な「拒絶」の言葉だった。

僕が観測し、分析し、これこそが真実だと定義した「幸福のプロセス」。それは、彼女にとっては、ただの迷惑な分析で、彼女の純粋な感情を汚す、不純物でしかなかったのだ。

太陽が、雲に隠れた。

部室の空気は、今までで一番、重く、そして冷たく、僕らの間に沈んでいった。

僕の異常性は、またしても、人間を描くことに失敗した。

いや、それ以上に、すぐ隣にいる仲間を、深く傷つけてしまったのかもしれない。

(第20話へ続く)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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