
公園のベンチ。街灯の光の下、糠森ひなは図書館で借りた分厚い本を開いていた。
表紙には『古典落語名作選』とある。
目次に並ぶ見慣れない題名の中から、彼女が偶然開いたのは『出来心』という噺だった。冒頭、泥棒の親分が、失敗ばかりで仲間の評判も悪い子分に向かって「お前は泥棒の才能がない。足を洗って堅気になれ」と言い放つ。それに対し子分は、「せっかく親分子分の間柄になったんだ、これから心を入れ替えて精進します」とすがりつく。
ひなは、そこでページを繰る手を止めた。活字の向こうに、ピアノの師である米山共子の顔が浮かんだからだ。
「きゅうちゃん、心が足りないわ。もっと、あなたの心で奏でなきゃ」
「あらあら、きゅうちゃん。そんなに力んじゃってまあ。もっと肩の力抜かないと』
――及第点の「きゅうちゃん」。
いくら完璧に鍵盤を叩いても、師匠が求める正解には届かない。私は、音楽の世界にいるべき人間ではないのだろうか。落語に出てくる間抜けな泥棒と同じように、見込みがないから暗に突き放されているのだろうか。そう思うと、一文字も先に進めなくなってしまった。その時だ。
「なんだ、お雛様。暗いところでそんなもん読んでると、目が悪くなるぜ」
頭上から降ってきたのは、少しのんきなテノールだった。
顔を上げると、熟れすぎたトマトのような赤いオーバーオールを着た酔酔亭馬楼が立っていた。両手には、自動販売機で買ったばかりの缶ビールとペットボトルのお茶が握られている。馬楼はひなの隣に腰を下ろし、お茶のボトルを差し出した。
「お疲れぃ。で、何を読んでんだ? って言っても、広げた本の間て溺れてるように見えたけどな」
馬楼、なかなか鋭い。
「落語の本。馬楼さんの仕事のこと、少しは知っておきたいなって」
ひなはボトルを受け取り、膝の上の本に視線を落とした。
「これ、『出来心』って噺の最初なんですけど」
「ああ、泥棒のすっとこどっこいの話な。それがどうかしたか?」
「この子分、才能がないから辞めろって言われてるのに、心を入れ替えますってしがみつくじゃないですか。なんだか」
馬楼はビールの缶を傾けようとして、ピタッと手を止めた。ひなの視線を感じたのだ。もじゃもじゃの頭の奥で、自分と師匠・なまくらの顔がフラッシュバックする。「お前、落語家には向いていないのかもしれないな」という、いつか師匠に言われた言葉が耳の奥で蘇る。
馬楼が恐る恐る横目で窺うと、ひなは真剣に膝の上の本を見つめ、ひどく落ち込んだ顔で「私の、私の」とつぶやいている。馬楼は密かに安堵の息を吐き、プシュッとビールの缶を開けた。
「私、共子先生にいつも言われるんです。音楽に心が足りないって。代弾きの仕事ばかりで、自分の音も見つけられない。本当は、私にはピアニストの才能なんてないから、先生は呆れてるんじゃないかって。そう思ったら、もう」
馬楼はビールを一口飲み、小さく息を吐いた。
「ひな、ひなさんよ。お前、泥棒の下っ端と自分を一緒にすんのか?」
「構造としては同じですよ。師匠と、見込みのない弟子です」
「全然違うね。違う、全然。全然、違う。ん、どっちだ?」
「しつこいです。どっちが先でも同じです」
「あのな、本当に見込みがねえ奴には、誰もわざわざ説教なんてしねえんだよ。黙って破門にするか、ほっとくかだ」
馬楼は夜空を見上げた。きれいな月が上がっている。
「うちの師匠だってそうだ。普段は『お前なりにやればいい』なんて放任してるくせに、肝心なところでは容赦ねえ。でもな、それは俺を潰すためじゃねえんだよ。こんにゃくだ」
「こ、こんにゃく?」
「ああ。熱々の、でっかいこんにゃくだ。壁だとぶつかったら痛えだろ? だから師匠ってのは、弟子の前に巨大な熱々こんにゃくとして立ちはだかるんだよ。ひょいっと適当にまたごうとしたら、プルプル滑るし、なにより火傷しそうに熱い。でも、弾力があるから怪我はしねえ。そういう愛の障害物なんだよ。共子先生も同じだろ」
ひなは、手元のペットボトルを両手で包み込んだ。言っている意味はまったくわからないが、必死に自分を慰めようとしてくれていることだけは伝わってきた。
「じゃあ、馬楼さんも、なまくら師匠の熱々こんにゃくの前にいるんですか?」
「俺? 俺は百年に一人の逸材だからな! こんにゃくの方から避けて通るぜ! がんも様のお通りでえってな」
馬楼が豪快に笑う。その不格好で強がりな笑い声に、ひなの胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけるのを感じた。
「がんもどき、好きなんですね。おぼえときます」
ひなは小さく吹き出し、落語の本を閉じた。
「ねえ、馬楼さん」
「ん?」
「この『出来心』、お願いって言ったら……あ、やめときます。忘れてください。プロの落語家さんに、こんな公園でなんて失礼ですよね」
馬楼は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。
「プロ? まあ、二つ目だけどな。いいよ、やってやるよ。俺の落語で、ひなの頭でっかちの、こんがらがりを笑い飛ばしてやる」
馬楼はベンチの上で居住まいを正すと、咳払いをして語り始めた。
「えー、泥棒にも色々とございまして……」
不器用で、間も少しおかしい、いつもの馬楼の落語だ。けれど、その馬楼にしか出せない声は、ひなの心を不思議なほど穏やかにしていった。
「で、親分、あっしは心を入れ替えまして……」
3分後。馬楼が泥棒の子分を熱演している最中、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。馬楼が横を見ると、ひなはベンチの背もたれに深く寄りかかり、すやすやと眠っていた。
「おいおい、自由だなぁ、ひなは」
馬楼は呆れたように小さく息を吐いたが、その声は限りなく優しかった。彼は語るのをやめ、残りのビールを静かにあおって、しばらくの間、無防備なひなの寝顔を見守っていた。
作・千早亭小倉
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