第22話「共犯者の設計図」

文芸部室の空気は、奇妙な均衡を保っていた。

天野さんが生み出した、単語の羅列。それは物語とは呼べない、世界のかけらのリスト。だが、そのリストが机の中央に置かれたことで、僕が書いた分析的な文章も、黒崎部長が求める文学的な魂も、そして堂島が規定する物理法則も、全てが等しく価値を失い、ただの素材としてそこに並んでいる。誰もが、次の一手を打てずにいた。

数十分が経過しただろうか。

天野さんは、出し切った、というように息をつくと、おずおずと自分の「作品」を黒崎部長の前に差し出した。その顔には、疲労と、ほんの少しの期待が浮かんでいる。

「……できました」

黒崎部長は、無言でそのノートを受け取ると、そこに並んだ拙い文字の列に目を落とした。

『体育館。ワックスの匂い。

ボールがリングに当たった。乾いた音。

汗が、顎から床に落ちた。

右の後ろから、声がした。

背中に、手が触れた。熱かった。

だから、笑った。』

沈黙。

部長の表情は、能面のように変わらない。やがて、彼女はぱたりとノートを閉じた。その音は、最終審判の槌の音のように響いた。

「……なるほどな」

彼女は、心の底からうんざりした、という声で言った。

「これは、物語ではない。ただの、監視カメラの映像記録だ。そこに、作者《あなた》がいない。誰の視点で、何を感じ、なぜそれを書こうと思ったのか。その意思が、魂が、一欠片も存在しない。これでは、ただの現象のリストだ。読む価値もない」

ピシャリ、と下された評価に、天野さんの肩が落ちる。彼女のなけなしの努力は、「価値なし」と断じられた。

僕が何か言おうとするより早く、堂島がそのノートを横から引き寄せた。

「いや」

彼は、天野さんの文字の列を指でなぞりながら、静かに首を振った。

「作者の不在は、必ずしも欠陥ではない。客観的な事実の羅列は、読者に解釈の余地を与える。問題は、別の点だ」

「何が言いたい、堂島」

「この記録には、空間識が欠落している」

堂島は、天野さんの方に向き直った。

「『右の後ろから声がした』。では、その声の主と、君との正確な距離は? 『背中に手が触れた』。その時の君の身体の向き、体育館の扉を基準とした座標は? 物理空間における位置関係が定義されていないため、この記録は、どこにも存在しない、幽霊の視点から書かれていることになる。構造的に、崩壊している」

魂の不在。

座標の欠落。

二人の批評家による、あまりにも的確で、あまりにも容赦のない指摘。天野さんは、唇を噛み締め、俯いてしまった。彼女が必死で差し出した「本物」は、文学的にも、物理的にも、成立していなかったのだ。

部室に、再び重い沈黙が落ちる。

僕の分析は、彼女を傷つけた。

彼女の懸命な表現は、誰にも届かなかった。

どうすればいい? この袋小路から、抜け出す方法は。

僕の思考が停止した、その時。

黒崎部長が、ふっ、と息を漏らした。それは、笑いだった。絶望的な状況を、心の底から楽しむような、悪魔の笑みだった。

「……面白い。実に、面白い」

彼女は、すっくと立ち上がると、僕の前に置かれた「分析的なレポート」と、天野さんの前に置かれた「監視カメラの記録」を、それぞれ指差した。

「聞け、出来損ないども」

その声は、静かだが、有無を言わさぬ響きを持っていた。

「一樹。君は、人間という精緻な機械を分解し、完璧な設計図を描くことはできる。だが、その機械に、心臓という名の魂を吹き込む方法を知らない。君が描くのは、血の通わない、美しいだけの骸骨だ」

次に、彼女の視線が天野さんを射抜く。

「バスケ部。君は、誰よりも熱く、力強く脈打つ心臓を持っている。だが、その心臓を収めるための、骨格も、肉体も持たない。君が生み出すのは、形をなさず、ただ床に広がって痙攣するだけの、生々しい臓物だ」

骸骨と、臓物。

僕らの欠陥を、彼女は、あまりにも的確に、そして残酷に言い当てた。

「個としては、どちらも文学の名に値しない、廃棄物だ。……だが」

彼女は、僕と天野さんを交互に見やった。その瞳に、狂気と、純粋な好奇心が混じり合った、危険な光が宿る。

「――ならば、組み合わせればいい」

「「え……?」」

僕と天野さんの声が、奇妙にハモった。

「これより、君たち二人には、『コンクリートの涙』の幸福なシーンを、共同で執筆してもらう」

それは、命令だった。僕らの意思など、一切介在しない、絶対的な決定。

「バスケ部、君は書き手ではない。君の役割は、自らの感情と感覚を、可能な限り生のデータとして、一樹に提供することだ。匂い、音、肌触り、心の動き。君が感じた全てを、言語化して提出しろ。君は、素材だ」

「そして、一樹」

部長は、僕に向き直った。

「君は、彼女から提出された、その混沌とした生のデータを、君の分析能力で再構築しろ。骨格を与え、肉をつけ、一つの、矛盾のない物語として成立させるのだ。君は、建築家だ」

素材と、建築家。

心臓と、骸骨。

僕と、天野さんが、共同執筆?

思考が、追いつかない。僕の分析を「嫌い」と言った彼女と? 僕が、その彼女の心を、再び解剖しろというのか?

「む、無理だよ、そんなの!」

天野さんが、悲鳴のような声を上げた。

「私、神崎くんのやり方、嫌だって……!」

「ならば、どうする?」

黒崎部長は、冷ややかに問い返した。

「君は、書けなかった。彼は、描けなかった。個として破綻している君たちが、作品を生み出すための方法は、これ以外にない。……これは、君たちがこの文芸部に存在する、唯一の価値証明だ。この命令を拒否するというのなら、二人まとめて、私の視界から消え失せろ」

それは、最終通告だった。

僕らは、視線を交わした。そこにあるのは、信頼も、友情もない。ただ、同じ地獄に突き落とされた者同士の、途方に暮れた、戸惑いだけ。

僕の異常な観測眼と、彼女の太陽のような感情。

決して交わるはずのなかった二つの歪な力が、今、強制的に、一つのペン先に繋がれようとしていた。

僕と彼女は、この日から、ただの部員ではない。

一つの作品を生み出すための、奇妙で、歪な――共犯者になったのだ。

(第23話へ続く)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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