これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
昨夜、千夏さんと静かに語り合った言葉の余韻が、どうやら私の心の奥にある「引き出し」の鍵を、不用意に開けてしまったらしい。
遠野の冷たい朝の空気の中で、私はふっと目を覚ました。夢の中の私は、冷たい雨に打たれていた。
灰色の空の下、まわりには何もなく、防波堤にのぼる階段は壊れたままだった。その風景の中に、一本の松がぽつんと立っている。私はただ、そこに取り残されたように立ち尽くしていた。
夢の中で、私は泣いていた。何を知っているわけでもないのに、初めて見るような光景でもないのに、急に胸が締め付けられるように痛くなって、気づけば涙がこぼれていた。松を見たからなのか、海や波を見たからなのか、それともまわりの空気全部がそうさせたのか……理由はわからない。ただ、どうしようもなく悲しく、途方に暮れていた。
息を口から静かに吐き出し、吐いただけの新鮮な空気を鼻からゆっくりと吸い込む。いつものおまじないをして、脈打つ心を落ち着かせた。
もちろん、それがただの夢ではないことを私は知っている。あれは数年前、私が実際にある場所で見た一本の松だ。何度も繰り返し、日本中に報じられた松とは別の松。そこを訪れた、あの雨の日の記憶そのものだ。
あの日、冷え切った身体と心で、たまらなくあたたかいものが欲しくなって、逃げ込むようにして入ったいつものお店で、あたたかいお味噌汁を飲んで何とかひと息ついたことまで、ありありとよみがえってくる。
朝、台所にふたりで立ち、朝ごはんの洗い物をする。
遠くで、防災無線の声が聞こえた。小さな途切れ途切れの声が反響して、よく聞こえない。
「めすう……牝馬が逃げ出したのでご注意ください」
千夏さんが、うまく音をすくいとった。二人して、顔を見合わせて笑う。
「よくあるんですか?」と、テーブルを乾拭きしている千夏さん。
「私も、初めて聞いたわ」と、私。
そのとき、千夏さんの足元に何かがぽとりと落ちた。
パスケース。数年前の日付が大きく書かれた定期券が入っていた。
「あれです。ここあん村で、あれが起こったときの。たまたま、ここあん鉄道の定期が切れるのがその日で、あのことで、帰りは電車が動かなかったから。それで、そのまま、なんとなくずっと持ってて」
千夏さんが複雑な表情を見せる。
「ずっと持ってるなんて、やっぱりおかしいですかね」
「やっぱりなんてことはないよ。それはない」
私が見た夢の風景の底にある、言葉にできない寂しさと痛みは、きっと今の千夏さんも抱えているものなのだろう。彼女もまた、ここあん村を移動図書館でめぐりながら、あの日の私のように、ふいに風景の重さに立ちすくみ、理由のない涙を流す日があるのかもしれない。
私は、家の外に停めてある車のことを考えた。あの車の話も、いつか千夏さんにしようと思う。そう考えると、話したいことがまだまだあるような、何も話していないような気になった。
自分の道へ戻っていく千夏さんのために、今必要なものはなんだろう。あの日の、あたたかいお味噌汁にかわるものは何だろう。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)



