掌編「呼応」

午後五時の時報がここあん村に響き渡ると、佐野健は手元のキューシートから一度目を離した。

コミュニティFMのスタジオ内は、秒単位で管理された規律の世界だ。無音検知ユニットのランプは正常な緑色を灯し、生放送のインフラは完璧に維持されている。デッドエアという「あってはならない沈黙」を防ぐことこそが、健に課された社会的責務であった。

しかし、ヘッドホンを外した健の耳の奥には、いつも別の音が居座っていた。

あの災害のあとから続く、金属的な高音。それは脳の過緊張が作り出す電気信号のエラーのようなもので、医師からは気長に付き合うしかないと言われている。音が途切れない放送原稿に向き合っているときだけが、その不快な自鳴から意識を逸らせる時間だった。

業務を終え、夕闇が薄く広がる街へ出ると、どこからか歌詞のないハミングが聞こえてきた。

音叉のように精密で、感情の揺らぎを一切排除した、硬質な透明感を持つ歌声。

――「歌の人」。

村の誰もが知っていながら、その姿を誰も見たことがない、その人の声だった。声は、かつて被災した公共施設の裏手あたりから響いているようだった。誰もがその正体を探らないという不可侵のマナーを、健も当然のように守り、ただの風景としてその声を聴いていた。

健が古びたコンクリートの壁際に差し掛かった、そのときだった。

いつもと同じはずの歌声が、ある特定の音階に達した瞬間、健の耳の奥で奇妙な不協和音が弾けた。

歌の人が発したその冷ややかな高音が、健の脳内で鳴り響いていた金属音と、まったく同じ高低で重なり合ったのだ。

次の瞬間、パズルの一片が噛み合うように、二つの音が完全に融和した。

同時に、健の頭の中から、あらゆる雑音が一瞬にして消失した。

それは、外から押し寄せた歌声の波形と、健の聴覚神経が刻んでいた異常なパルスが、確率の隙間を縫って奇跡的に「逆位相」として合致したかのような、信じがたい現象だった。

耳鳴りが消えた。

数年ぶりに訪れた本当の静寂の中で、健は立ち尽くした。

アスファルトを撫でる夕方の風の音。遠くを走る車の駆動音。衣服が擦れる微かな摩擦。世界が持っている本来の細かな音が、驚くほど鮮明に鼓膜へ流れ込んでくる。あまりの軽やかさに、健は自分がどれほど重い外套を背負っていたかを思い知らされた。

しかし、その奇跡が続いたのはほんの数秒のことだった。

歌の人の声が次の音階へと移ると、健の耳の奥には、またいつもの金属音が「キーン」と静かに戻ってきた。歓迎すべくもないが、もはや切り離すこともできない、奇妙な同居人のような音だった。

健は、声のする方へ駆け出したりはしなかった。

名前も知らないその歌い手に、感謝を伝えようとも思わなかった。

あれは、張り詰めた自分の神経と、ただ規律のように歌い続ける誰かの声が、一瞬だけ同じ座標で交差した、一期一会の巡り合わせに過ぎない。執着して探し回るような性質のものではないことを、健のプロフェッショナルとしての理性が静かに理解していた。

歌の人は、そのあとも変わらずに歌い続けている。

ここあん村の境界線に浸透していくその声を聴きながら、健は深く一度だけ呼吸をし、自分の生活の秩序へと歩みを戻した。あの数秒間の静寂という確かな記憶だけを、ポケットの奥にそっと仕舞い込んで。

(了)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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