箱庭ラノベ|第25話 翻訳者のジレンマ|ここあん高校文芸部

僕らの「共犯」によって生み出された、奇妙な作品の断片。

翌日の放課後、文芸部室の長机に置かれたその原稿は、僕と天野さんの間に、新たな種類の、気まずい沈黙を横たわらせていた。成功した、というにはあまりに拙く、失敗した、というには確かな手応えがある。僕らは、この混沌とした成果物を前に、次の一手をどう打てばいいのか、分からずにいた。

天野さんは、僕の視線を避けるように、窓の外を眺めている。僕もまた、彼女の感情を刺激しないよう、思考を目の前の原稿の分析に集中させていた。

この膠着した空気を切り裂いたのは、やはり、この実験の支配者だった。

「……ふむ。及第点、といったところか」

黒崎部長は、僕らの原稿を指先でつまみ上げると、まるで出来の悪い生徒の答案でも見るかのように、冷ややかに評価を下した。

「骸骨に、心臓を無理やり埋め込んでみた、というところだな。不格好で、縫合痕も生々しいが、それでも、かろうじて生命の兆候は見える。最初の試みとしては、まあ、悪くない」

その言葉に、天野さんの肩から、わずかに力が抜けるのが分かった。だが、部長の評価は、そこで終わらなかった。

「だがな」

彼女は、僕と天野さんを交互に見据えた。その瞳は、獲物を見定める猛禽のように鋭い。

「この『幸福』には、決定的に欠けているものがある。……それは、『固有性』だ」

「こゆうせい……?」

「そうだ。君たちが描いたこのパフェの情景は、誰にでも当てはまる、匿名の幸福だ。カタログに載っている、見本のような幸福に過ぎん。そんなものでは、読者の心は動かせん」

彼女は、僕が書いた『コンクリートの涙』のプロットを、トントン、と指で叩いた。

「この物語で描くべきは、ただの幸福ではない。この後、無惨に打ち砕かれる、その主人公だけの、かけがえのない幸福だ。その記憶が、あまりにも個人的で、あまりにも輝かしいからこそ、それが失われた時の絶望が、真の闇を獲得する。分かるかね?」

それは、あまりにも的確で、あまりにも残酷な指令だった。

僕らの拙い共同作業を、さらに深い領域へと、強制的に引きずり込もうとしている。

「素材。君の役割は、より純度の高いデータを提供することだ。君の脳内にある、最も個人的で、最も価値のある幸福の記憶を、ここに差し出せ」

その言葉に、天野さんの顔から、すっと血の気が引いた。

彼女は、唇を固く結び、目の前の白紙の仕様書を握りしめた。だが、その鉛筆は、ぴくりとも動かない。

分かる。僕には、彼女の思考が手に取るように分かった。

匿名の、一般的な「幸福」を描くことと、自分だけの、個人的な記憶を差し出すことの間には、天と地ほどの隔たりがある。ましてや、それを差し出す相手は、つい先日まで、自分の心を無遠慮に解剖していた、僕なのだ。

僕の異常性は、またしても壁にぶつかった。

以前の僕なら、どうにかして彼女の心からデータを「抽出」しようとしただろう。だが、今の僕には、それができない。彼女が僕に向けた「嫌い」という言葉が、僕の分析能力に、重い枷を嵌めていた。

僕が動けずにいると、天野さんは、俯いたまま、か細い声で呟いた。

「……わかんない。そういうの、うまく、絵にできない……」

それは、明確な拒絶だった。

部室の空気が、再び凍てつく。黒崎部長の眉が、わずかに不快そうにひそめられた。

まずい。このままでは、僕らの共犯関係は、始まる前に崩壊する。

僕は、ほとんど無意識のうちに、口を開いていた。

「……あの」

二人の視線が、僕に突き刺さる。

「天野さん、じゃなくて……。この物語の、主人公の女の子のことなんだけど」

僕は、必死に言葉を紡いだ。僕の分析能力を、彼女本人ではなく、物語のキャラクターへと向ける。

「彼女にとっての、かけがえのない記憶って、なんだろう。大きなパフェみたいな、派手なものじゃなくて……もっと、些細なことかもしれない」

「……些細なこと?」

「そう。例えば……帰り道で、片方ずつのイヤホンで、同じ曲を聴く、とか」

僕がそう言った瞬間、天野さんの肩が、ほんの少しだけ、ぴくりと動いたのを、僕は見逃さなかった。

「……その曲が、本当は、ちょっとダサくて。でも、二人とも、そんなこと言えなくて、黙って聴いてるの。夕日がすごく綺麗で、隣を歩く人の影が、自分の影と時々、重なって……」

僕は、彼女の反応という微かなデータを元に、思考をフル回転させ、物語の風景を再構築していく。これは、分析ではない。僕が彼女から読み取った、言葉にならない感情の断片を、物語という形に「翻訳」する試みだ。

僕が言い終わると、天野さんは、しばらく黙っていた。

やがて、彼女は、おずおずと鉛筆を握ると、白紙の仕様書の上に、さらさらと線を描き始めた。

それは、二つの、寄り添うような影の絵だった。そして、その影の頭と頭を繋ぐように、一本の、細い線が引かれていた。

僕らは、その日、初めて、本当の意味で言葉を交わしたのかもしれない。

僕が提示した仮説の骨格に、彼女が、血の通った記憶の肉付けをしていく。

僕は、もはやただの建築家ではなかった。彼女の心の奥底に眠る、かけがえのない記憶を、傷つけないように、そっと掘り起こす、不器用な考古学者だった。

窓際で、黒崎部長が、その光景を静かに見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは、いつもの嘲りではなく、僕の観測が正しければ、ほんの僅かな、予測不能な現象に対する、驚きのような色だった。

(第26話へ続く)

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|箱庭コントを紡ぐ 話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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