これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
春の海は、まだ少しの厳しさを残したまま、鈍色の光を反射させていた。
海岸沿いの国道を南へと車を走らせる。助手席に座る菜箸千夏さんが、私の運転を穏やかな声で褒めてくれた。
「車社会って言っても、通らないときは通らないからね、車。それに、こっちは信号も少ないし。ずっと前だけど、山田から遠野まで、一度も赤信号につかまらずに戻れそうだった時もあったのよ」
「わあ、すごいですね。最後まで」
山田町から遠野までのマップを頭の中に思い浮かべていたのだろう。少しだけ間をあけて、千夏さんが素直な驚きの声をあげた。
「最後の最後で赤信号。それまでアクセル踏みっぱなし。疲れる」
「でも、慣れてる感じ」
「知っている道だから走れるだけ。都会の複雑な道は、怖くてとても走れないわ。盛岡はまだしも、仙台なんてとてもとても」
私は正直な気持ちを口にした。ハンドルを握る手のひらに、アスファルトの振動がかすかに伝わってくる。
本で結ばれているような私たち。沿岸の図書館や書店に足が向くのは自然なことだった。ただ、あのときからいまにつながる流れを千夏さんに説明することは控えた。話し始めたら、止まらなくなることはわかっていたし、それが少し怖かったのだ。私は、本当の意味で、あのときあの瞬間を何も知らないのだ。それでも、そのあと、いろいろな形で体験し、頭に入ってきたことを、ほかの人に伝えるということを、何も準備していなかったから。千夏さんが何か尋ねてくれたことにはなるべく誠実に答えるように、それだけを心がけた。
大型の複合商業施設の中に再建された図書館もあれば、大きな難を逃れた要塞然とした図書館もある。隣接するスペースが避難所となった図書館。地元に根ざした古くからの本屋さん、あのことのあとに新たに生まれた書店……。いくつかの仮の姿を経て、いまがある。いまはいまで終わらない。それは、明日につながるいまだ。
千夏さんも、何かを察してくれたのか、静かな眼差しで図書館や書店の中をまわり、何冊かの本を自分用にと、それぞれの書店で買い求めていた。
話題を変えようという意図はなかったが、移動の車中でこう尋ねてみた。
「千夏さん、移動図書館車の運転もするの?」と。
千夏さんは、左右にやや大げさに頭を振ると、専属のドライバーであるHさんやUさんの話をしてくれた。彼女が彼らに信頼を寄せていることが、その穏やかな語り口から伝わってきた。
私の心の中で、一つの引き出しが音もなく開いた。そう、その引き出しを開けるために聞いたわけではなかったのだが。それは、かつて東北のある街で出会った、地元の移動図書館車のドライバーさんのこと。
土地の歴史や人間模様に詳しく、「お喋り好きな明るいおじいさん」というのが初めて会ったときの印象だった。朝のミーティングでは、ボランティアさんたちに飴を配ったり、ムードメーカーでもあった。口にたくわえたひげの尖り具合から、ついたあだなは船長だった。本人もそれを気に入っていたようだった。
けれど、まもなくして、私はその船長の別の顔を知ることになる。
ふだんは、私のボランティアは、図書館内で蔵書の再登録をしたり、ラベル貼り、ブックコートフィルムかけたりなどが多かったが、その日は、移動図書館の手伝いをさせてもらえたのだった。そして、なぜそうなったのか記憶があいまいだが、私は、移動図書館車の助手席に座っていた。運転は船長だ。
視界が開け、まだ生々しく瓦礫の山に囲まれる中を目的地に向かって走る。彼は何かに怯えるように何度も繰り返した。
「化物が来たんだ、これは化物が来たんだ。おっそろしいなあ」
低い、地を這うような声。何でも知っている優しくて頼りになる船長の心の底からおびえた声が聞こえた。私と違い、それまでもその道を彼は幾度も通っていたはずだ。その時だけ、その言葉が出たのか、わからない。ただ、私に聞かせようとした声とは思えなかった。そう、その時、私は感じたのだ。彼の中にいま、私の存在が消えていることを。
船長は、設営や案内のビラ配りなどはだれよりも先んじて行うが、本の貸し借りや本棚の整理を手伝うことはしない。その日訪れた仮設団地の広場で、一仕事終えた船長はいつものように手持ち無沙汰となり、その団地で暮らす子どもたちとキャッチボールを始めた。何度かボールを交換するうちに、彼の強張った肩がようやく解けていったことをよく覚えている。
ふいに蘇ったこの記憶は、千夏さんには結局は話さなかった。いまの彼女に手渡すには、あまりに重すぎる気がしたから。
「移動図書館は、ドライバーさんが本当に大切よね」私はそう言い、「図書館車の助手席って、特等席だと思う」と続けた。
千夏さんは、すべてにおいてそうだが、このときも安易にわかったような相槌を打たなかった。彼女は私の言葉を一度自分の中に沈め、咀嚼するようにして沈黙を守った。
移動図書館車のドライバー。運転の上手下手ではない。安全運転はもちろん、安心な運行には欠かせない存在。そして、それ以上の何か。
「知らないうちに、思う以上の負担をかけているかもしれませんね」
ふと彼女が漏らしたその言葉には、現場を預かる者としての誠実な痛みが混じっていた。
そんな時だ。一台の移動図書館車とすれ違ったのはまったくの偶然だった。その車体を目で追い、首を後ろにねじりながら、千夏さんは小さくなる車体に手を振った。そして、それを良い切り上げ時として、私たちは海沿いの街を離れた。
(息は口から静かに吐く。吐いただけの空気が鼻から静かに入ってくる)
夕闇が迫る山並みを見つめながら、私は自分の中の記憶をそっと引き出しの奥へ戻した。
帰り道、千夏さんが「さくら?」と小さくつぶやいた。
「ああ、桜。ここあん村はもう散っちゃったわよね。こっちは、これからだな。千夏さんを遠野に迎えた日に立ち寄ったスーパーあったでしょう。あそこの裏手にある桜から、遠野は咲き始めるなんて聞いたこともあって。この前見た感じだと、もう少し先って感じだったし」
戻る道は、ついつい口の重石が取れる。
「私、変な時に来ちゃいましたかね」と、千夏さんがちらっとこちらを見て言う。少しすねたような口ぶりだ。
「え、ああ、牡蠣も今度ねなんて言っちゃったものね。そんなことないわよ。ほら、帰りにジンギス食べましょう、ジンギス」
住田の坂道を上り、赤羽根トンネルを抜ければ、もう遠野だ。
これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。
中野文
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