
過保護な母との口論は、苦手な柔軟剤の香りが楽譜に移るというひどくくだらない理由から始まった。苛立ちを鎮めるために実家を飛び出し、一人で酒を煽った。東北のオーケストラの打ち上げで鍛えられたという自負は、ここあん村の空気がもたらす気の緩みであっけなく崩れ去り、気づけば糠森ひなは路地裏の階段で行き倒れていた。
目を覚ますと、鈍い頭痛がこめかみを締め付けた。薄暗い、見知らぬ店内のソファに寝かされている。耳に届くのは、静かで体温の低いピアノ曲だった。
起き上がろうとするひなに、着物姿の女が近づいてきた。そこからは柔軟剤などではなく、妖艶な香りが漂ってきた。しかし、女が差し出した、温かいマグカップに入っていたのは、アルコールを飛ばしたホットミルクだった。
「あの……助けていただいたみたいで、ありがとうございます」
ひなはカップを受け取り、戸惑いながら尋ねた。
「私たち、初めましてですよね?」
「もう、店の前に流木みたいに打ち上げられてるから、驚いちゃったわよ」
「すみません。本当にすみません」
ひなは、ただただ恐縮した。だが、女は意外なことを口にした。
「初めまして? あなたは初めましてだろうけど、私は違うのよ」
この可哀想な流木を拾い上げた女は、バー「海」のママだった。彼女は煙管を燻らせながら、こう続けた。
「先月の東北での定期演奏会、ラフマニノフ、とても良かったわよ」
ひなは目を見張った。
「こっち、いらっしゃい」
ママに招き寄せられるように、カウンター席に座る。視線をさまよわせるうち、カウンターの奥の棚に古いカセットテープが並んでいるのが目に入った。その中の一本の背表紙に、きれいな手書き文字で『代弾きピアニストの恋』と記されていた。ひなにとって唯一のソウルメイトとも言えた酔酔亭馬楼との恋とも呼べない不思議なつながり。それを題材に、馬楼の弟弟子が演じた新作落語のタイトルだった。
「数年前の大学前駅。真っ赤なオーバーオールの男に怒っていた不器用な代弾きさん。あの時からずっと、見てたわよ」
自分の最も消し去りたい黒歴史から、馬楼との不器用な関係、そして現在の重圧まで、この妖艶な女にすべてを把握されている。完璧な「ソリスト・糠森ひな」のメッキが剥がれ落ちていく。しかし、不思議と恐怖はなく、ひなの胸には抗いがたい安堵感が広がっていた。
「こんな夜更けに階段で行き倒れるなんて。お母様と喧嘩でもして、実家に帰る気がないんでしょ」
海ママの言葉に、ひなは弾かれたように顔を上げた。
「母を知っているんですか?」
「知らないわよ。でも、たいていのことはわかるものよ。若い娘がこんなになる理由なんて、相場が決まってるもの」
海ママは静かに煙を吐き出した。
「あなた、行く当ては、あるの?」
その問いかけに、ひなは観念したように首を横に振った。
「うちの二階に、フェルマータのついた休符みたいなスペースならあるけれど」
「フェルマータのついた……休符?」
「鈍いわね。お母様のタクトもオーケストラも気にせず、気が済むまで音を止めて休んでいなさいってことよ」
ひなはホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込み、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「はい。お言葉に甘えさせてください」
糠森ひなの、平均律から少し外れた居候生活が始まった。
(了)
作・千早亭小倉
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