早稲田大学の西門を出てすぐ、グランド坂通りに面した場所に、スナック「灯台」はある。
通り沿いには安倍球場があり、夜でも野球部の練習場の気配が残る。東大受験に失敗して早稲田に入学し、二年に進まずに再び東大を目指して去っていく学生も珍しくないこの街で、東大と同じ音を持つ看板を掲げるセンスには少しの意地悪さが感じ取れた。
店の入口にはキャンドル風のライトがぶら下がっている。扉を開けると、安タバコとウイスキーの匂いが漂っていた。ここははるひこが所属する自主映画サークルの行きつけでもあり、カウンターの隅にはサークル専用の大学ノートが置かれている。
はるひこは、カウンターの隅で一人、水割りのグラスを前にしていた。一浪して早稲田の1年生になってから数ヶ月が経つ。予備校生活からは解放されたものの、浪人、そして高校時代の記憶の歪みが、時折頭の中に蘇ってくる。
はるひこは水割りを指でかき回した。下に敷かれた紙のコースターは、すでに濡れて形を崩していた。
カウンターの中にいるアルバイトの海は、はるひこより少し年上である。はるひこはグラスを見つめたまま、高校時代についてぽつりと言った。
「南武線の谷保と、中央線の国立の間にあった男子校。戦時中に海軍の支援を受けてできた学校で」
「知ってるよ、そこ。進学校だけど、校風が自由なんだよね」と海が応じる。
「世間的にはね、そういう話で。自由な校風って何なんですかね」はるひこの語るトーンは平坦だった。
クラスは、いろいろなグループに分かれていた。汗臭いユニフォームのまま授業を受けるようないつも日に焼けてるグループ、仲間でバンドを組んで学園祭では他校からのファンの歓声を集めるグループ、数年前に創刊されて雑誌が紹介するアメリカ西海岸の文化に感化され、お決まりのサーフカットに、奇妙な柄のアロハシャツを羽織ってくるグループなど。その中で、はるひこがいたのは、クラスで浮いているパッとしない者たちが吹き溜まったようなグループ。ノリの悪さや暗い印象から、他のグループからは、「じっとり軍団」とありがたくない名前を付けられ、常に無言の圧力が加えられていた。
「卑下するつもりはないけど、自虐のループから抜け出せなかったんですよね」
「若いのに、愚痴はいかんよ、君」海が、冗談まじりに、はるひこをなだめる。
「でもね、今でもわかんないんですけど、それぞれのグループを仕切っているボスみたいな奴が、話しかけてきたりするんですよ。学校じゃなくて、1対1の時とか」
「1対1? デート?」海は手を休めずに訊いた。
「茶化さないでくださいよ。例えば、僕、電車通学してたんですけど、電車の帰り道とか。さっき言ったアロハシャツのリーダーが、わざわざ隣の車両から僕を見つけて近づいてきて、親しげに話しかけてくるんです」
「教室と全然違うんだ?」
「そうなんですよ。次の日には、まるで何もなかったみたいに無視されるんです」はるひこは、水滴でふやけたコースターの端に指先で触れた。
「それから、体育のサッカーの授業中、サッカー部のキャプテンが蹴ったシュートが僕の頭をガーンって直撃したことがあって」
海が、仕事の手を止め、痛そうな顔ではるひこを見る。
「そのキャプテンが、放課後、誰もいない廊下で声をかけてきて。ひどく心配そうな顔をして、丁寧に謝られて」
「それで、今度一緒にサッカーやろうぜ、みたいな?」
「無い無い、無いですよ。あと……」
「まだ、あるの? それって、クラスで浮いてたんじゃなくて、みんな友だちだったんじゃないの」海は少々、呆れ顔だ。
「違います。浪人している時にも。高校に用事があって行った帰り道、国立駅の近くの本屋で、バンドのボーカルやってる奴に偶然会ったんです。向こうからわざわざ声をかけてきて、最近どうしてるの、って」はるひこは思い返すように少し間を置いたが、やはり声のトーンは変わらなかった。
「ただ迷惑で、不思議? 不条理? なんで声かけてくるのって、今でも謎です」
「その人たちも、周りのノリに縛られて強者を演じていただけじゃないのかな」海は布巾でグラスを拭きながら言った。
「1対1になって観客が消えたことで、ようやくその鎧を脱げたのよ。君が愚鈍な人間じゃないと分かっているから、素に戻れたんだと思う」
「海、綺麗事言ってんじゃないわよ」
「灯台」のママだった。彼女は帳場から出てくると、はるひこの手元に視線を落とした。すっかりふやけて形を失いかけているコースターを一瞥し、小さく息を吐き出す。
「綺麗事なんて」海が反論を口にしかける。
「それより、こひちゃんのコースター、替えて」
ママに命じられるまま、海が手際よく新しいコースターを用意する。ママは、新しくなったコースターに再びグラスを置いたはるひこの顔を見つめた。
「そんなの、ただの自己満足よ。普段は格下に圧力をかけている後ろめたさがあるから、誰も見ていないところで少し優しくして、帳尻を合わせているだけ。自分を度量の広い良い奴だと思いたいだけの、身勝手な話だよ」
ママはそう言い残して、海にあとを任せて、新台の様子を見に店をとっとと出て行ってしまった。
客は相変わらずはるひこ一人。夜が更けていく。
「同級生たちとは今も付き合いがあるの?」
海がグラスを磨きながら尋ねる。はるひこは窓の外をちらっと見た。
「ここにもうちの高校から大勢入っているはずだけど、付き合いはもうないな。『じっとり軍団』ともそれっきりです。でも、不思議なんですよ。早稲田はひとつの学年に1万人もいるのに、息苦しくない。高校の頃の数百倍も人間がいるのに」
「1万人もいればね」海は手を止めて言った。「誰も他人に干渉しないのよ。お互いに無視し合っている状態が、君のいた狭い教室のカーストも、鎧も、ママの言う自己満足も、全部薄めて消しちゃうのね」
自分もあのボス格の連中も、この広大なキャンパスでは単なるその他大勢に過ぎないのだと、腑に落ちるものがあった。はるひこは手元のグラスを見つめた。
「書類の提出日を守れなかった時、すごく焦って事務局に行ったんですよ。でも、窓口に行ったら、同じように遅れた人間が僕以外に何十人も列をなして並んでいて。それを見た時に、ああ、自分なんて大勢のうちのひとりに過ぎないんだって」
はるひこはグラスから顔を上げ、カウンターの中で立ち働く海をじっと見つめた。
「海さんって、いつもは他の客とバカみたいに騒いでいるのに、真面目に答えてくれることもあるんですね」
そこに照れや、親密さを求めるような色は一切なかった。呑気な声だ。普段見ている彼女の態度と、今目の前にある真面目な言葉との違いを、ただそのまま口に出して指摘しただけだった。
「あ、わかった。そういうところよ」
「え?」
「そのボスが1対1の時に態度を変えた理由がわかったわ。君、相手をじっと『観察』しているよね。私のことも。そのグループのボスたちも、1対1になった時に気づいたのよ。このダサいアニメ好きの男が、自分をクラスの権力者としてではなく、ただの不完全な人間として観察しているってことに。その時、初めて、あんたに興味が湧いたんじゃないの? 君が何を考えているんだろうって、観察し返したくなったのよ」
はるひこには、それが正解かどうかはわからなかった。今はどちらでもいい話だった。海が言う通り、ただの観察者同士として、舞台裏で視線を交わしていただけかもしれない。
はるひこは、カウンターの隅に置かれたサークルの大学ノートを手に取ると、パラパラとページをめくりながら言った。
「ああ、なんだろう。サークルの先輩にも言われたことあるんですよね」
「何を?」と海が訊く。
「お前、俺のこと馬鹿にしてんだろうって」
「え、馬鹿にしてる? どういう時にそんなこと言われるの? 部室で?」
「いえ、大学の前の通りを歩いてたら。あ、先輩が反対側の歩道を歩いてるなって思っただけです」
「それだけで、馬鹿にしてるなんて思われないでしょう」海はそう言って、はるひこの顔を覗き込んだ。妙な間が空いた。
「そういう時はね、可愛く手を振るのよ」言葉のままに、海が布巾を持った手をひらひら振る。
「振らないですよ。目が悪いから、先輩のことをにらんだかもしれないけど」
「それでか」
「でも、馬鹿にはしてない」
「ほんとに?」
「どうだろ」はるひこが天井を見上げる。
海は小さく首を振った。
「ほら見なさい。嫌なやつだね、君って案外。でもいいやつよりはよっぽどいいよ」
海はそう言うと、パッと表情をビジネスのそれに切り替えた。
「――というわけで、真面目に対応してあげたお礼に、新しいボトル入れてこうか」
はるひこは小さく息を漏らして笑った。グランド坂のスナックの夜は、そのまま静かに続いていった。
了
作・千早亭小倉





