ジッポーのキシンッという金属音が響いた。湿った苔と冷え始めた土の匂いを、オイルがたちまち上書きする。安煙草の紫煙が囁くように耳元を通り過ぎても、鴨下栞は振り返らなかった。この石階段は栞の観測所だが、同時に、後ろにいるたたこの指定喫煙所でもあったからだ。
「よお、栞。また、ひとりで黄昏れて、悪い男でも待ってんのかい?」
背後からの声に栞が振り返ると、たたこが金髪の頭に赤いメッシュを揺らし、ニヤリと笑って立っていた。ここあん村のガールズバンド「栗きんとん99」のドラマー、たたこ。彼女が吐き出す紫煙が夕陽に透け、髪が本当に燃えているように見えた。栞は、彼女の苗字を知らなかった。
栞の母が管理するアパート「常磐荘」の裏手、雑木林へと続くこの場所は、二人にとって「いつもの場所」だった。たたこは栞の隣にどかりと腰を下ろし、眼下の常磐荘を見つめた。
「……別に。定点観測」
「観測ねえ。相変わらず、お前は難しい言葉を知ってるねえ」
たたこは、銀色の煙をふうっと吐き出す。
「で、今日の観測結果はどうだい? 『常磐荘』の面倒くさい先生方の生態は」
栞は、履き慣らしたローファーのつま先で、石階段の苔を小さく削った。栞の母、留美子は、出版界隈で数々の伝説を残した有名編集者だった。そして、この古アパート「常磐荘」は、彼女がその鋭敏な嗅覚で見出し、半ば強引に住まわせている、一癖も二癖もある作家たちの梁山泊と化していた。
栞は目を細め、眼下の常磐荘、そのそれぞれの部屋の窓に意識を集中する。
「101のレイさんは、夏休みの幽霊。終わらない8月31日を、ずっと生きてる」
「なんだいそりゃ。要するに、いつまでもガキの頃の夢から覚めねえ、どうしようもねえロマンチストってことだろ?」
たたこは、無骨な指先で煙草の灰を弾いた。
「102のウッディーさんは、迷宮の管理人。自分で作った迷路で、自分を追いかけ続けてる」
「ああ、頭ん中がごちゃごちゃしてて、喋り出したら止まらねえ奴な。議会にもいるぜ、そういうの。結局、何が言いてえんだか、さっぱりわからねえんだよ」
たたこは、ここあん村唯一の女性議員でもある。議案の提出数のトップはたいてい、このたたこであった。
栞の口元が、ほんの少しだけ緩む。たたこの言葉は、栞の抽象的な観測結果に、身も蓋もない「現実」のラベルを貼って分類していく。
「2階のカバさんは、沈黙の解剖医。言葉をメスみたいに使って、世界をバラバラにしてる」
「ふん。カッコつけて黙ってるだけかもしれねえぜ。あたしに言わせりゃ、言いたいことも言えねえ意気地なしか、腹ん中に一物も二物も隠してる食わせ者か、どっちかだね」
たたこは煙草を携帯灰皿に押し付けた。その指先が、不意に栞の頭をわしわしと撫でる。
「まあ、どいつもこいつも、面倒くさい男たちってことに変わりはないよ。……あいつらに比べりゃ、ブコウはまだ、分かりやすい馬鹿だったかねえ」
ブコウ……。武功さん。
たたこの口からその名前が出ると、栞の中で、記憶の彼が急に色鮮やかになった。
「……あの人は、このアパートの心臓だった」
栞が呟く。たたこは「心臓、ねえ」と少し寂しそうに笑った。
「あたしに言わせりゃ、あいつはただの台風の目だよ。いっつも面倒ごとの中心にいて、周りを引っかき回すだけ引っかき回して、自分はいつの間にかいなくなっちまう」
栞の瞳に懐かしさの色を認めたたたこは、いらいらしたように言葉を続けた。
「だけどさ。あいつがいると、不思議と笑いが絶えなかったんだ。どうしようもねえ馬鹿で、ほっとけねえ弟みたいな男だったよ」
栞は黙って、眼下の常磐荘を見つめた。黄昏が濃くなり、ぽつり、ぽつりと窓に明かりが灯り始める。それは、不規則な心音のようだった。
「まあ、お前がこうして、あいつらの手綱を握ってりゃあ、大丈夫か」
「こうしてって、私はここからアパートを眺めてるだけじゃん」
「わかってるって」
たたこは立ち上がり、栞の肩をぽん、と叩いた。
「生姜焼きでいいか? 腹減ってんだろ?」
たたこがとびきり優しい笑顔を見せる。栞は、それに見とれすぎて、子供の頃、何度も叱られたことがある。
「どうせ、お前の母ちゃん、新しい才能だか何だかって今日も帰りが遅いんだろう?」
そうなのだ。母の留美子は、常に新しい「物語」に飢えている。今日も作家のカンヅメに付き合うと行って、いくらかテーブルの上に置いて出て行ってしまった。
たたこが栞を残し、階段をとんとんと降りていく。Tシャツの背中に描かれた昇り龍が、一瞬だけ、夕陽を浴びてギラリと光った。
栞にとっての心臓。
たたこが言う、台風の目。
呼び方は違っても、きっと同じものを見ている。栞はポケットから手帳を取り出すと、今日の観測結果を書き込んだ。
『被検体:たたこ。職業:ここあん村唯一の女性議員(兼ドラマー)。またの名を、常磐荘のもう一つの心臓』。
(了)
作・千早亭小倉
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