お題005. 不便の天才

新宿S亭の楽屋、出番を終えた馬太郎が、手際よく着物を畳んでいる。その横で、弟弟子の歌吉が、馬楼が忘れていったクタクタの羽織を苦笑いしながら眺めていた。

「しかし、馬楼兄さんは、ある意味じゃ天才ですよね」

馬太郎が、自分の真っ新な足袋をパチンと弾いて言った。

「なんだい、急に。あんなしくじりが年中行事の兄さんを捕まえて」

「いや、この前ね、兄さんと一緒に蕎麦屋に行ったんですよ。そしたら兄さん、メニューも見ないで『一番、喉に引っかかる蕎麦をくれ』って注文するんです」

「……引っかかる蕎麦?」

「ええ。『ツルツル入るような蕎麦は、食ってる気がしねえ。喉に喧嘩を売ってくるような、無愛想な奴が一番旨いんだ』って。店主も困り顔で、結局、一番太くて硬い、茹でる前の針金みたいなのを出しやがった」

歌吉は想像して顔をしかめた。

「で、どうしたんだよ」

「兄さん、真っ赤な顔して、涙目になりながら飲み込んでましたよ。最後には『これだ、この屈辱こそが蕎麦だ』って。……正直、ただの自虐行為にしか見えなかったけど、あのやり切る根性だけは、売れっ子の僕にも真似できませんね」

「それ、褒めてないだろ。ただの馬鹿だよ」

歌吉が吐き捨てると、馬太郎はさらに声を潜めて続けた。

「それだけじゃない。この前なんて、急ぎの仕事だってのに、わざわざ遠回りして石段の多い道を歩くんです。『平坦な道は心が弛む。常に重力と戦ってなきゃ、いい声は出ねえ』って。結果、高座に上がる頃には膝がガクガクで、正座した瞬間に足が痺れて、下げまで一歩も動けなくなってやんの。前座に抱えられて楽屋に戻る兄さんの背中、神々しかったですよ」

「……ただの計画性のないマゾヒストじゃないか」

「でしょう? あそこまで徹底して『不便』を愛せるのは、もはや一種の才能ですよ。あんなに効率の悪い生き方、普通の人には怖くてできません」

二人が「全くだ」とため息をついた、その時。ガラリと楽屋の戸が開き、着流しをはだけさせ、案の定、膝に湿布を貼った馬楼がフラフラと入ってきた。

「なんだい、お前たち。向こうまで声が響いてたぜ。どっかの馬鹿野郎の噂話でもしてたのかい?」

馬楼は、自分の羽織が歌吉に持たれているのも気づかず、空いている座布団の上にドサリと腰を下ろした。

「ええ、まあ。本当に救いようのない、不器用な男の話ですよ」

馬太郎が精一杯の愛想笑いを浮かべると、馬楼は「辛気臭え」と鼻で笑って、懐からクシャクシャの手ぬぐいを取り出した。

「それでも、馬鹿が一人もいねえ世の中も、窮屈でかなわねえだろ? で、どこのどいつだい? ただ、なまくら師匠だって話は無しにしとくれよ」

馬太郎と歌吉は顔を見合わせ、それから同時に、目の前の「大馬鹿野郎」に深く、深く一礼した。

作・千早亭小倉

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*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。 *The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
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