移動図書館日記(108)遠野編

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

防潮堤の前で不器用で重たい言葉を落としてしまった後、千夏さんとの間に張り詰めた空気が漂っていた。半分は考えすぎだろう。私の悪い癖だ。でも、それなら残り半分はやはり事実だ。自分の言葉の強さを後悔しながら、それをどうやってほどけばいいのか分からないまま、私たちは沿岸の小さな食堂へ入った。千夏さんは、私の臆病な沈黙を咎めるでもなく、ただ静かに隣を歩いてくれていた。

千夏さんに注文を任され、私が頼んだのは海鮮丼。ただ、これは、新鮮な魚介を甘いお出汁とふわふわの卵でとじた「あたたかい海鮮丼」だ。冷たい刺身が乗ったものを想像していたのだろう。どんぶりを両手で包みながら、千夏さんは「あたたかい」とつぶやき、お腹をすかせた少女のように、「初めてです」と驚いて見せた。その真っ直ぐな反応が可笑しくて、私の胸の奥で固く結ばれていた「部外者」としての強張りが、湯気とともにふんわりと溶けていくのを感じた。

「食べて、食べて」

「わあ、美味しい。やっぱり文さんにお任せにしてよかった」

「ほんと? ふふ、うれしい」

「あっためると、魚介の脂がとろっとなって」

「そうそう、磯の香りも広がってね」

千夏さんのほころんだ顔を見ていると、言葉が自然に湧いてきた。

「牡蠣もね、私は蒸したのが一番好き。もうシーズンが終わるから……次は、秋から冬においで。待ってるから」

相手の負担になるような「できない約束」はしないと心に誓っていたはずなのに、どうしてこんな言葉がすんなりと出てきたのか、自分でも不思議だった。

食後、私たちは波打ち際まで浜辺を降りた。

寄せては返す白い波を見つめながら、ボランティアとして東北に通っていたころのことを口にした。3年近く東京と東北を往復しながら、その間ただの一度も、海の水に触れなかったこと。私のような「よそもの」が、人々の平穏を奪ったこの水に気安く触れてはいけないと、境界線を引いて病的に恐れていたこと。ようやくその水に触れることができたのは、ボランティアの「役」をおりてずいぶん経ってから。それほどまでに自意識に縛られていたのだと。

息を口から静かに吐き出す。吐き出した分だけの空気が、鼻から静かに入ってくる。

千夏さんは何も言わず、海風に少し髪を揺らしながら、私のとりとめのない言葉の響きをただ受け止めてくれている。相手の心に土足で踏み込まず、ただ静かに言葉を待つ。彼女のその「プロの隣人」としての眼差しが、私の中で錆びついていた引き出しを、少しずつ開いてくれている。

これは、日記の名を借りた、中野文の記憶。

中野文

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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