太陽が、雲に隠れた。
部室の空気は、今までで一番、重く、そして冷たく、僕らの間に沈んでいった。
天野さんの「嫌いだな」という一言は、短いナイフのように、僕の胸に突き刺さったまま抜けない。僕の異常性は、またしても人間を描くことに失敗した。それ以上に、仲間を傷つけてしまった。
どうすればいい?
謝るべきか?
だが、何に対して?
彼女の心を、僕の歪んだレンズで覗き込んだことにか? それは、僕という存在そのものを否定することに等しい。
思考が、完全に停止する。
僕が凍りついている間、天野さんは俯いたまま、指先でスカートの裾を固く握りしめている。黒崎部長は、この気まずい沈黙すらも批評の対象であるかのように、冷たい目で僕と天野さんを交互に見ている。
この汚泥のような膠着状態を、破壊したのは、最も予測不能な一撃だった。
「――現行のワークフローは、非効率的だ。フィードバックループが、致命的なエラーを発生させている」
静かに、しかし有無を言わさぬ響きで、部屋の隅から声がした。
堂島だった。
彼は、いつものように本に目を落としたまま、この場の感情的なもつれを、まるでシステム障害の報告書でも読み上げるかのように、淡々と分析し始めた。
「仮説の構築、および被験体の観察までは、計画通りに進んだ。だが、仮説を基にした小説が、被験体本人からの拒絶を受けた。これは、分析レイヤーと、被験者の持つ経験レイヤーの間に、根本的な非互換性が存在することを示唆している。これ以上の続行は、さらなるエラーを誘発するだけだ。プロジェクトは、デッドロック状態にある」
デッドロック。
彼の無機質な言葉は、この場のどうしようもない状況を、的確に表現していた。
天野さんが、わずかに顔を上げて堂島を見ている。彼女にとって、自分の悲しみや怒りが「エラー」や「非互換性」という言葉で定義されるのは、想像もつかない体験だろう。
黒崎部長は、堂島の分析に、静かに耳を傾けていた。そして、僕が予想していたような、僕への罵倒も、天野さんへの嘲笑も、彼女の口からは出てこなかった。
代わりに、彼女は、まるで故障した機械をリセットするかのように、冷徹な決断を下した。
「一樹」
彼女は、まず僕を見た。
「君の分析モデルは、被験体からのリジェクトによって、その有効性を完全に否定された。つまり、失敗だ」
ぐ、と喉が詰まる。その通りだった。
「そして、バスケ部」
次に、彼女の視線が、天野さんを射抜いた。
「君は、彼の文章を『嫌い』と言ったな。ならば――」
彼女は、机の上に置いてあった未使用の大学ノートと、ペン立てから抜き取ったボールペンを掴むと、天野さんの目の前に、叩きつけるように置いた。
「――君が書け」
「えっ⁉」
天野さんが、素っ頓狂な声を上げた。僕も、耳を疑った。
「わ、わたしが⁉ む、無理だよ、文章なんて」
「関係ない」
黒崎部長は、天野さんの抗議を、バッサリと切り捨てた。
「君は、彼の分析を『違う』と断じた。ならば、君には、何が『正しい』のかを証明する義務がある。君の言う『元気が出たから笑った』という、その単純な真実とやらを、我々にも理解できる形で提示してみせろ。口先だけで否定するなら、猿でもできる」
それは、あまりにも理不尽で、あまりにも的確な命令だった。
天野さんの「共感」という武器は、今、彼女自身に「表現」という重い責任を突きつけている。
「さあ、書け。君の言う、本物の『幸福』とやらを。それができなければ、君の言葉は、ただの感傷的な戯言だったということになる。……それで、いいのか?」
部長の最後の問いに、天野さんは唇を固く結び、何も言い返せなかった。
僕の失敗から始まった汚泥の川は、僕が一人で渡るのではなく、今、全く予想もしていなかった仲間を、道連れにしようとしていた。
僕の目の前で、物語の設計図の一部だっただけの彼女が、無理やり、新たな書き手として、舞台に引きずり出されていく。
僕の異常な観測眼が、新たな、そしてさらに混沌とした化学反応の、引き金を引いてしまった。
部屋の隅で、堂島が静かにペンを走らせる音が、聞こえたような気がした。
彼が観測しているのは、もはや僕の書く物語ではない。僕ら自身が、知らず知らずのうちに演じさせられている、この奇妙で歪な創作という名の、物語そのものだったのかもしれない。
(第21話へ続く)
![[公式]千早亭小倉の世界 | ここあん村案内所](https://atelier-cocoan.com/wp-content/uploads/2026/04/20260410_125128.jpg)


