掌編「柳とハリボテ」

これは、鳥瞰学園ここあん高校の絶対的支配者・黒崎文が、まだ文芸部部長になる前の物語。彼女がなぜ「ここあん高校」を選び、何を背負ってあの部室に座っているのか。そのすべては、祖父の言葉と一つの決断から始まっていた。
1.それぞれの悩み

カシャリ、とプラスチックの安っぽい音が部屋の隅で鳴った。振り向けば、窓を開け放った風で積まれた辞書が崩れただけだった。黒崎文は小さく息を吐き、ノートPCの画面に視線を向けた。キーボードのバックライトだけが、薄暗い自室の光源だ。

Web小説プラットフォームのマイページ。純文学を意識して書き上げた最新短編『深海魚の見る夢』の閲覧数は、昨日から変わらず「8」を示している。文はマウスを操作し、別のタブを開いた。そこには『転生ガチャ子』という作者名のアカウントが表示されている。一番上に固定されている『転生悪役令嬢、断罪イベントを回避したら、なぜか隣国の皇太子に溺愛されてます!?』という作品の閲覧数とハートの数は、投稿から時間が経っているにもかかわらず、未だに少しずつ増え続けていた。

文は、その本文をスクロールしながら、ふっと口元を緩めた。

相変わらず、無駄に読ませる構成ね。テンポよく進む奇想天外な展開と、過剰なまでの溺愛描写。文自身が緻密に組み上げた論理的な骨格に、相方が溢れんばかりの感情と愛嬌(血肉)を注ぎ込んで完成させた、間違いなく一級品のエンターテインメントだ。読者が求めるものを正確に提供し、これだけ多くの人間を楽しませている。それを馬鹿にする気は毛頭ない。何より、その骨格を設計し、書いていたのは自分自身なのだ。

だからこそ、このアカウントを消すことができずにいた。だが、今の自分が書きたいのは、消費されて消えていく快楽ではない。魂を削り出すような、たった一つの真実だ。文はブラウザを閉じ、書きかけのテキストファイルを開いた。

登場人物は二人だけ。ただ静かに時間が流れていく、それだけの話。誰が読むというのだろう。こんな、流行の対極にあるような物語を。

同じ頃。町を流れる川沿いの、古びたトタン屋根の作業場。そこが文の祖父であるゲンゾウの工房だった。硝煙と薬品の匂いが染みついた空間で、ゲンゾウは受話器を耳に押し当て、電話口の相手に怒鳴っていた。

「だから、ウチは閃光連華みたいな派手なのはやらねえって、何度言やあ分かるんだ!」

閃光連華とは、コンピューター制御で次々と連続して打ち上げられる派手な花火のことだ。

『まあまあ、ゲンさん、そう言わずに。いまは感染症対策で、祭りの会場にも制限があるでしょう。お客さんはみんな、配信の画面越しに花火を見るんですよ。画面映えする分かりやすいのがウケるんです。ゲンさんの花火は“本物”ですから! だからこそ、うちの配信の“格”が上がるんです。メインの『デジタル閃光連華ショー』の、ちょうどその直前にお願いしますよ。最高の“前座”になりますから!』

相手は一方的にまくし立てると、電話を切った。

「前座の意味を知ってんのか」

ゲンゾウの言葉はおそらく相手には届かなかったろう。怒りに任せて、ゲンゾウは受話器を叩きつけた。「……ハリボテが」低く呟かれた言葉は、工房の火薬の匂いに溶けて消えた。

2.言葉との出会い

深夜1時。

文は夜食の握り飯を持ってゲンゾウの工房を訪れた。ゲンゾウは作業台に向かい、黙々と星(花火の火薬玉)を丸めている。

「……また閲覧数、伸びなかったわ。魂を込めても、誰にも届かない」

諦めを含んだ硬い声が、静かな工房に響く。

「お祖父ちゃんはいいわね。花火なら、否応なく全員の視線を空に釘付けにできるのだから」

羨望の響きに、ゲンゾウの手がぴたりと止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、文を見た。

「見ちゃいねえよ。あいつらが見てんのは、花火じゃねえ。スマホの液晶画面だけだ」

ゲンゾウは顔をしかめた。

「今の連中にとっちゃ、どんな技術もただの映えとやらの道具だ。見た目だけ派手にして、中身がスッカラカンの……ただの『ハリボテ』よ」

「……ハリボテ?」

文が小首を傾げると、ゲンゾウは鼻を鳴らした。

「張り子の虎ってことだ。ガワだけ立派で、中身がねえってことよ」

文は、自分の悩んでいたWeb小説の世界をそこに重ねた。ランキングを埋め尽くす、あの長くて派手なタイトルたち。

なるほど。かつて自分が計算ずくで作っていたものも……。文は少し考えた後、ふっと表情を和らげた。

「……でも」

「あ?」

「『ハリボテ』って、おじいちゃんが言うと、皮肉なのに可愛く聞こえる」

ゲンゾウはふん、と鼻を鳴らし、手元の作業を止めて文を真正面から見据えた。

「お前、つまらない悪口を若いうちに身につけるんじゃねえぞ。ハリボテか、こいのぼりの吹き流しか、区別もつかないガキのくせに」

「……吹き流し?」

「どっちも中は空っぽだが、風を受けて泳ぐためのものと、ガワだけで人を騙すためのものは違うってことだ。言葉の表面だけ真似して、分かった気になるな」

ゲンゾウの雷が落ちたが、文は少しだけ笑ってしまった。祖父の重苦しい怒りを受け止めながらも、どこか張り詰めていた心が僅かに軽くなるのを感じた。

3.見抜かれた「構図」

「つぶれかけのスーパーを立て直す映画、昔、文の家で見たよね」

自分が「本物」だと信じるものを書きたいと、相方に明かしたとき、相手はこう言ったのだ。

「あの映画で、すっごく高い魚を仕入れる人がいたじゃない。文がやろうとしてることって、誰のためになるんだろう?」

そのときは、相方が何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。

「流行に乗れば、読者を消費させるだけのハリボテを書くことになる。真面目に書けば、ハリボテのための養分にされる。もう書くのを、やめようかしら」

俯く文の頭上から、再びゲンゾウの雷のような声が落ちた。

「自分で自分の中身に自信が持てねえなら、やめちまえ!」

ゲンゾウの拳が、作業台をドンと叩く。

「連中が俺の花火を『配信の格付け』に使おうが、知ったことか! こっちも連中を利用してんだよ!」

ゲンゾウは、文の目をまっすぐに見据えた。その瞳には、怒りだけではない深い覚悟の色が浮かんでいた。

「利用されてやれ。存分に利用されて、その上で、テメエの“本物”を、連中のど真ん中に叩きつけるんだよ。ハリボテかどうかは、受け取った奴が決めりゃいい。テメエはただ、自分の信じるモンを作ることに、命燃やしゃいいんだよ」

ゲンゾウの言葉は文に向けたものであり、ゲンゾウ自身に向けたものでもあった。利用されているなんておこがましい。自分もまた、巨大なシステムを利用しているのだ。文の黒曜石のような瞳に、腹の底から湧き上がる新たな決意の熱が滲んだ。

4.それぞれの花火

祭り当日。感染症対策で制限が設けられた河川敷は、間隔を空けて立つ人々で静かな熱気を帯びていた。仮設ステージの上で、イベント会社の司会者がマイクを握りしめ叫んでいた。

「いよいよお待ちかね、配信視聴者数も1万人を突破しました! メインの『デジタル閃光連華ショー』の始まりでーす! と、と、と、その前に! 我が町が誇るゲンゾウさんによります、“昔ながらの本物の花火”をご覧ください!」

その場違いな紹介に、河川敷に笑いともつかないざわめきが広がる。あちこちで一斉にスマートフォンの画面が点灯し、カメラアプリが起動される。

ヒュルルル……。

か細く、しかし澄んだ音が夜空に響き、一条の光が吸い込まれるように昇っていく。光が頂点に達し、一瞬の静寂が訪れた。

次の瞬間。パァン、と乾いた音が響き渡ると同時に、夜空一面に、巨大な華が咲いた。

黄金色の光の粒が、まるで意思を持った生き物のように、ゆっくりと完璧な曲線を描きながら垂れ下がる。夜空を覆う巨大な柳の枝垂れ。一つ一つの光の点が明滅し、軌跡を残しながら地上に向かって落ちてくる。

そして、光が消える直前。柳の先端が一際強く鮮やかな黄金色を放ち、夜空に焼き付くような残像を残して、静かに消えていった。

後に残されたのは、静寂と、息を呑むような深い、深い闇。

スマートフォンの画面を点灯させていた人々も、その光景に「撮る」という行為を忘れ、ただ呆然と、光の消えた夜空を見上げていた。文もまた、ただその完璧な美しさと圧倒的な熱量に心を奪われていた。

5.ハリボテの空に

翌日。文は自室のPCの前で、Webサイトを開いていた。

『深海魚の見る夢』の閲覧数は「9」に増えていた。たった一人。だが、その「1」は、昨日の「8」とは比べ物にならないほど重く、確かな手触りを持っていた。

彼女はタブを切り替え、かつて自分が骨格を作り上げた『転生ガチャ子』のページを改めて見つめた。大衆を熱狂させる技術のすべてが、そこにはある。そして昨日、祖父が見せた「本物」の魂。

(私は、その両方を知っている)

彼女は「転生ガチャ子」のタブをそっと閉じ、まっさらな新規作成ページを開く。そして、タイトルにこう打ち込んだ。

『ハリボテの空に』

ただ反発するのではない。皮肉な世界を軽やかに受け流せるだけの知性を持って、私は私だけの本物を構築すればいい。「8」人の読者、そして今日新しく訪れた「1」人の存在を、暗闇の中で確かに感じる。彼らもまた、このハリボテの空の下で、本物の光を探しているのだ。

文は、机の隅に置かれていた提出間近の「進路希望調査」の用紙を引き寄せた。

そこには、安定を約束するような無難で偏差値の高い進学校の名前が書かれている。彼女はそれを万年筆で迷いなく二重線で消し、余白に新たな校名をしっかりと力を込めて書いた。

『私立鳥瞰学園 ここあん高校』

得体の知れない自己顕示欲と、薄っぺらな創作ごっこが入り混じる、混沌とした吹き溜まり。ならば、そのハリボテのど真ん中にこそ、私が私の「本物」を叩きつけてやろう。

「なに、この学校名。『瞰』なんて書ける人、いるのかしら」

文はふっと口元を和らげると、自分たちだけの完璧な柳を打ち上げるために、静かにキーボードを叩き始めた。

(了)

作・千早亭小倉

*ここあん村および本サイトに掲載している小説類の設定はフィクションです。
*The articles on this site were written by a human, peppered with AI.
*無断転載禁止 Copyright © 2025 千早亭小倉|話紡庵レーベル All Rights Reserved.

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