【登場人物】
鴨下 留美子:劇団「かもかも」の演出家。元・伝説の文芸編集者であり、役者の心臓を抉るような表現を求める絶対的権力者。
南花 おちば:劇団「かもかも」の女優。普段はゆるキャラ「ちいにゃん」の中の人として感情を抑圧しているが、舞台ではそれを爆発させる。
【場面設定】
小古庵アトリエ村の公民館。壁に鏡が貼られた劇団「かもかも」の稽古場。

鴨下留美子:(パイプ椅子に深々と腰掛け、台本を丸めて指先で叩く)やり直し。おちばさん、あなたの今のセリフ、ただの不平不満にしか聞こえないわ。
南花おちば:(息を切らし、額の汗を手の甲で拭う)不平不満に決まっています。このセリフ、昨日私が居酒屋でこぼした愚痴を一字一句そのまま台本にしただけじゃないですか。こんなの、ただの労働環境へのクレームです。
留美子: 昨日、ビールジョッキを握りしめてこれを語った時のあなたは、もっと悲壮感に満ちて美しかったわ。あなたが「ちいにゃん」という分厚い着ぐるみの中に閉じ込めている、その生々しい毒を、舞台の上にぶちまけるのよ。
おちば: シラフで、しかもスポットライトを浴びながら自分の愚痴を叫ぶなんて、羞恥心で死にそうです。無理です。愚痴は愚痴です。
留美子:昨日はただの愚痴に聞こえた言葉が、今日は美しい歌詞のように響く。愚痴のような歌詞でもなく、歌詞のような愚痴でもない。ひとつの文章が、ふたつの別々のものになる。それが演劇という魔法よ。さあ、もう一度。今度は、着ぐるみの中で酸欠になりかけた時の、あの息苦しさを思い出しながら。
おちば:(深くため息をつく。床の木目を見つめ、やがてゆっくりと顔を上げる。その目に、普段の温厚さは消えている)着ぐるみが、重い。視界が狭くて、息が詰まる。子供が容赦なく蹴ってくる。
留美子:(目を細め、言葉を待つ)
おちば:(地を這うような低い声で)それでも、私は手を振り続けなきゃいけない。中で誰がどんな顔をして汗を流しているかなんて、誰も興味がないんだから。
(稽古場に、完璧な静寂が落ちる。蛍光灯のわずかなハム音だけが聞こえる)
おちば:(すっと表情を戻し、息を吐く)どうですか、演出家殿。私のただの愚痴は、まだ修正が必要ですか。
留美子:(手元の丸めた台本を取り落とし、椅子から立ち上がる)いまのテイクで完璧よ。恐れ入ったわ。
おちば: ありがとうございます。では、本番もこの調子でやらせていただきます。あ、ついでに言っておきますけど、この稽古場のクーラーも結構カビ臭いです。演出の前に、フィルターの掃除をお願いしますね。
留美子: (うっとりと目を細め、天井のエアコンを見上げながら)カビ臭いクーラー。押し殺した夏。それもまた、頽廃的で美しいわ。次の舞台のモチーフに……。
おちば: (冷ややかな声で)では無くて。ただの業者手配の話です。早く掃除してください。
(幕)
作・千早亭小倉
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