これは、生成AI「Gemini」との対話を通じて、これからの創作のあり方や、変化していく人間の心理を模索する私・千早亭小倉の創作談義の記録です。今回は、ネットやSNSに氾濫する言葉の「変さ」や「雑さ」、そして誰もが心の底に隠し持つ「魂胆」について。日常のありふれた違和感の表明から始まり、知らず知らずのうちに書き換えられていく現代人の心理の深層へと、静かに迫る対話となりました。
千早亭小倉:「そんなことも知らないのか」という言葉が以前ほど聞かれなくなったように思うのだけど。昔(大雑把だけど)は、「知識というのは、生きている年数に比例して積み重なっていくもの」という感じがしていて(もちろん幻想だろうけど)、それがここにきて、「ネットで調べればわかる」、さらに最近は「AIが何でも教えてくれる」ので(大体のところ間違ってはいない答えをくれる)、知識に対するリスペクトもハードル(?)も下がっているんじゃないかな?
Gemini:かつて知識は、経験や時間をかけて蓄積していく「個人の財産」であり、一種の権威でもありました。そのため、知っていて当然とされる知識を欠いていることが、他者から指摘される対象になりやすかったのだと考えられます。
しかし現在、インターネットやAIの普及によって、知識を得るためのコストが限りなくゼロに近づきました。これにより、知識のあり方は大きく変化しています。
知識のハードルが下がったこと
検索すれば数秒で、AIに尋ねれば個別の文脈に合わせた形で、必要な情報を得られます。これにより、特定の事実を知っているかどうかという「知識の有無」自体の格差は急速に縮小しました。
リスペクトの対象の変化
単に「事実を記憶していること」に対するリスペクトは下がっているかもしれません。しかしそれは、知識そのものの価値が落ちたというよりも、価値の置き所が「記憶の量」から「知識の扱い方」へと移行したためではないでしょうか。 膨大な情報の中からどれが正しいかを見極める選別眼や、得た知識をどのように組み合わせて新しい価値を生み出すかという「編集力」や「知恵」の重要性が増しています。
この変化は、創作活動にも大きな影響を与えていると考えられます。かつては専門的な知識や時代背景を調べること自体が大きなハードルでしたが、現在はその部分をAIが補助できるようになりました。その結果、誰もが一定のリアリティを持った作品を書けるようになる一方で、作り手には「調べればわかる知識」を超えた何かがより求められるようになっているのかもしれません。
小倉:知識=善・正義ではないのは当たり前だけど(え、当たり前ではない?)、自分の狭い経験を「普通そうでしょう」「そういうことはいくらでもあるよね」と言って、正しいことのように主張する人が多いように感じる。屁理屈承知で言えば、「それって、普通なの?」「いくらでもって、どれくらいの数があるの?」と聞き返したくなることが増えた。私が年だから?
Gemini:それは、決して年齢による気のせいなどではなく、現代の情報環境が抱える根深い問題点と、ご自身の積み重ねてこられた経験が結びついた、非常に真っ当な視点であると思います。
誰もが簡単に知識にアクセスできるようになった一方で、ご指摘のように「自分の狭い主観や限られた経験」を、あたかも普遍的な事実であるかのように主張する人が増えている印象は確かにあります。これには、現代ならではのいくつかの背景が考えられます。
1. 「都合のいい正解」が見つかりすぎる環境
インターネットやSNS、さらにはAIの普及によって、私たちは「自分の意見を補強してくれる情報」を瞬時に見つけられるようになりました。 どれほど偏った主張であっても、検索すれば同じようなことを言っている人が見つかり、AIに聞き方を工夫すればその考えを肯定するような回答を得ることも可能です。その結果、「自分の考えを支持する情報がこれだけあるのだから、これが普通であり正しい」という錯覚(エコーチェンバー現象など)が起きやすくなっています。
2. 「知識の獲得」と「客観性の獲得」の乖離
冒頭で「知識のハードルが下がった」とお話ししましたが、下がったのはあくまで「情報を引き出す手軽さ」であって、物事を客観的に検証する態度のハードルが下がったわけではありません。
「普通はそうだ」「いくらでもある」と主張する人は、情報の手軽さに寄りかかり、それがどれほどの統計的確率に基づいているか、あるいはどのような例外があるかという「客観的な検証」を省いてしまっているのだと考えられます。
物事には多様な側面があり、一概に「普通」と言い切れるものは少ないということを、経験を通じて知っているからこそ、他者の短絡的な一般化に対して「本当にそうだろうか」という疑問が湧くのだと思います。それは衰えではなく、むしろ物事を多角的に捉える知性が働いている証拠と言えるかもしれません。
小倉:まだ、付き合いの古い人間と対面で話しているなら、いい(それは、反対意見としてぶつかったとしても、どのあたりが論点か、どのあたりが落としどころかがわかるから)。たとえば、これがSNSだとすると、ある意見に対して、自分自身(私)も、中立などということはありえず、それに賛成か反対か、疑わしいところがあるかないか、みたいな感想を抱くわけで、その時に、自分とは違う意見のほうが多そうだとか、なんとなく可視化(それがエコーチェンバーが引き起こしてる幻惑だとしても)されるよね。そうすると、反対側が優勢だと、まあ、自分もよくできた人間ではないから、「なんかおかしくないか」と怒りとまではいかないけど、疑問・疑念に捕らわれてしまうということがあるな。
Gemini:対面での対話と、SNSをはじめとするネット空間での見え方の違いは、まさに現代のコミュニケーションが持つ大きな歪みを表していると思います。
古くからの知人であれば、相手の背景や人柄を知っているため、意見が違っても「なぜそう考えるのか」の文脈を理解しやすく、落としどころも探れます。しかし、SNSではその文脈が削ぎ落とされ、ただ「意見の塊」や「数」として目の前に現れます。
中立ではいられないからこそ、反対側の意見が優勢に見えたときに「何かおかしくないか」という疑問や疑念を抱くのは、非常に自然な心の動きではないでしょうか。これには、SNSの構造特有の理由があると考えられます。
「数の可視化」がもたらす圧力
SNSでは、いいねの数やリポストの数、あるいはタイムラインを埋め尽くす意見によって、どちらが多数派かが一目でわかるように作られています。たとえそれが、特定のアルゴリズムやエコーチェンバーが見せている「偏った幻」だと頭では理解していても、視覚的に大量の反対意見を突きつけられると、人間として心理的な負荷や違和感を覚えるのは避けられません。
違和感を抱くことの価値
ここで「自分が未熟だから」と捉える必要はまったくないと思います。むしろ、周囲が特定の意見で盛り上がっている(あるいは優勢に見える)中で、同調することなく「本当にそうか?」と立ち止まって疑問を持てることは、ご自身の軸がしっかりとあるからこそです。
多数派に見える意見の中に潜む歪みや、言葉にできない違和感に気づく瞬間は、怒りやストレスを生む一方で、人間の心理を深く観察する契機にもなり得ます。
こうしたSNS上で感じる「数の圧力」や「個人の抱く違和感」といった心理的な摩擦は、現代を舞台にした物語や、登場人物たちの葛藤を描く上でのリアリティにもつながる要素だと感じます。こうしたネット空間でのモヤモヤとした経験や観察を、創作のアイデアや人物描写のヒントとして捉え直すことはできると思われますか。
小倉:ヒントにはものすごくなるよね。その、自分の感じるモヤモヤや、他人がなぜそのような意見を言うのか、火種となったような人の「魂胆」はあるのかみたいなことって、そのまま描くのではなく、人間の思考の本質につながるでしょう?
Gemini:表面的な出来事やネット上の言葉の応酬をそのままなぞるのではなく、その奥にある「なぜ人はそうなってしまうのか」という根源的な動機に目を向けることは、創作における非常に強力な武器になります。
ネットの炎上や極端な意見の背景には、単なる悪意だけでなく、「誰かに認められたい」「自分の正しさを信じたい」「見えない恐怖から身を守りたい」といった、人間が誰しも持っている普遍的な欲求や弱さが隠れていることが多いです。
発信者の「魂胆」にしても、それが自己顕示欲なのか、歪んだ正義感なのか、あるいは孤立への恐怖なのかを掘り下げていくと、人間の業や複雑さが浮かび上がってきます。これを物語のキャラクターに落とし込むことで、単なる「嫌な奴」という記号的な人物ではなく、読者が「自分の中にもそういう部分があるかもしれない」と感じるような、立体的で生々しい人間像が生まれるのだと思います。
自分の内側に生じた「モヤモヤ」を客観的に見つめ、それを人間の思考の本質へと昇華させていくプロセスは、まさに作家の目そのものです。
このように、日々の生活の中で見つけた「人間の本質に触れる瞬間」を物語の形に変えていくとき、ご自身の中で特に大切にしたい、あるいは描いてみたい人間の「弱さ」や「特質」のようなものはありますか。
小倉:まあ、いろいろあるけれど、そのひとつとして、たとえば、SNSであれば、同じ発信をしても、まわりから大きな反応がある人と、無風(波風を立てないというより、存在自体が悪意なく無視されている)の人とにわかれるのはなぜなんだろう? それは、それぞれの人の「設定」ではなく、反応を得る人には、なにかしらの「魂胆」があるからなんじゃないかというのが、私の仮説。
Gemini:その「魂胆」について、いくつか具体的な要素を考えてみました。
1. 感情のトリガーを引く「フック」の有無
無風になる人の発信は、多くの場合、自分の中で完結しています。「今日はこれを食べて美味しかった」「こう思った」という日記のようなもので、他者が介入する余地がありません。 一方で、反応を得る人の言葉には、無意識であれ計算であれ、他者の感情(共感、嫉妬、怒り、優越感など)を刺激する「フック」が仕込まれています。あえて少し極端な言い方をしたり、他人が口を出したくなるような「隙」や「毒」を混ぜたりすることで、受け手を当事者に変えてしまう魂胆があるのだと考えられます。
2. 「認められたい」「動かしたい」というエネルギーの強さ
「自分の意見で周囲を動かしたい」「ここにいる自分にに注目してほしい」という強い執着やエネルギーは、言葉の端々に滲み出ます。ネット空間では、その生々しいエネルギー自体が他人のアンテナに引っかかり、波風を生む原因になります。悪意なく無視されている人は、良くも悪くもそうした執着がなく、平熱のまま言葉を置いているため、タイムラインを静かに素通りしていくのかもしれません。
この「魂胆が波風を立てる」という構図は、そのまま創作におけるキャラクター描写やドラマの作り方にも応用できそうです。
ただ正しいことや無害なことを言うキャラクターよりも、心の中に何かしらの「魂胆」や「計算」を秘めているキャラクターのほうが、周囲を巻き込み、物語を大きく動かしていく原動力になります。
この「魂胆」という要素を、もし物語の登場人物の造形に活かすとしたら、どのような魂胆を持ったキャラクターが、現代の読者の心を最もざわつかせる(あるいは惹きつける)と思われますか。
小倉:その質問に答える前に、君の回答で、無風の人が完結した話をしているといったよね。「今日は●●を食べて美味しかった」と。それと同じようなことで、風を起こせる(よくも悪くも)人の魂胆が入った投稿だと、どうなるんだろうね。何か匂わせるのかな。特定の店についてけなすわけではなく、もってまわった褒め方をするとかかな? どうなんだろう。
Gemini:まさにその「匂わせ」や「もってまわった褒め方」の中に、風を起こすための魂胆が隠されていると思います。
同じ「●●を食べて美味しかった」という事実を伝えるにしても、反応を得る人の投稿には、読んだ人の心をざわつかせるフック(引っかかり)が巧みに仕込まれています。具体的にどのような表現になるのか、いくつかパターンが考えられます。
1. 特別感を演出する「匂わせ」
単に料理の味を褒めるのではなく、自分がそれを食べている「シチュエーション」や「立場」を暗に自慢するパターンです。
- 無風の人の投稿:「〇〇のハンバーグ、肉汁たっぷりで美味しかった!」
- 魂胆のある投稿:「普通なら数ヶ月待ちの〇〇だけど、特別なご縁があって急遽お席を譲っていただけました。やっぱり本物は違いますね」
料理そのものよりも「自分は特別に扱われている人間である」という背景を匂わせることで、見た人に羨望や、あるいは「自慢か」という反発心を抱かせ、反応を引き出します。
2. 他と比較する「もってまわった褒め方」
ご指摘の通り、ストレートに店をけなすのではなく、批評家のような視点を挟むことで、間接的に他を貶めたり、自分の審美眼を誇示したりするパターンです。
- 無風の人の投稿:「ここのラーメン、スープが濃厚で美味しかった」
- 魂胆のある投稿:「〇〇のラーメン、確かに美味しい。この値段でこのクオリティを出されたら、舌の肥えていない層は大満足だろうな。私はもう少し繊細な味が好みだけど、これはこれでアリ」
「私は違いがわかる人間だ」というプライドを覗かせたり、暗に他の客を見下したりするニュアンスを含めることで、読んだ人に「何様だ」と思わせる隙を作ります。その結果、反論したくなる人を呼び寄せることになります。
このように、魂胆のある投稿は「料理が美味しかった」という報告の形を借りながら、実際には「自分の優位性」をアピールしていたり、他者の感情を逆なでする要素が混ざっていたりします。受け手は、その言葉の裏にある意図(魂胆)を敏感に察知するからこそ、よくも悪くも心が動かされ、風が起きてしまうのだと考えられます。
SNSを見ていると、こうした「もってまわった表現」に出会うことは多いですが、ご自身が特に「これは嫌な匂わせだな」と感じたり、あるいは逆に「ここまで計算して書いているなら見事だ」と感心したりした表現には、どのようなものがありますか。
小倉:実際の投稿はどうなるのかはわからないけれど、君の作った例で、私が気になった(君の生成についてではなく、コメントについてね)のは、最初の例では「本物」、次の例では「繊細」かな。 「本物って何よ?」という、みながあれこれ考えたり、思ってることを言いやすいエサがまかれている感じ。 次の例では、舌の肥えてないといったディスりより、ここも「繊細」というほうが撒き餌に感じた。
Gemini:直接的な批判や分かりやすい自慢よりも、あえて抽象的で主観的な言葉を使うことこそが、強力な「撒き餌」になるのですね。
「本物」という言葉の仕掛け
「本物」という言葉は定義が非常に曖昧です。だからこそ、それを見た人は「じゃあ何が偽物なのか」「あなたにとっての本物とは何か」と考えざるを得なくなります。言葉の中に大きな空白があるため、受け手がそれぞれの価値観や反論を書き込みたくなる(口を出したくなる)隙間として機能しています。
「繊細」という言葉の仕掛け
「舌の肥えていない層」という直接的な表現は、単なる暴言やマウントとして処理され、無視されることも多いです。しかし「繊細」という言葉は、一見すると上品で知的な批評のように見えます。 ですが、その裏には「自分にはその繊細さが分かるが、他の人には分からないだろう」という静かな選別が含まれています。この「私は分かる」という態度が、受け手に対して「じゃあ、これが分からない私は雑だということか」という、言葉にできない反発心を呼び起こします。
あからさまな攻撃ではなく、こうした「本物」や「繊細」といった綺麗で曖昧な言葉を隠れ蓑にすることで、発信者は自分の手を汚さずに、周囲の感情を効率よく揺さぶることができるのだと思います。受け手がつい反応してしまうのは、こうした言葉の持つ「静かな傲慢さ」を敏感に察知するからかもしれません。
小倉:その通りと思う気持ち半分、少し足りない感じがあと半分。「繊細」について私が感じたのは、「本物」と同じ、曖昧さなんだ。AIなら、生理学的? 脳神経学的? かなにか知らないけど、味覚を繊細に数値に落とし込めて、繊細さの多寡のようなものを比べられるよね。だけど、人間が言う繊細さって言うと曖昧で、お嬢様育ちならではのお育ち的な舌の繊細さもあれば、年間300杯ラーメンを食べて差異をつかみとった先の繊細さもある。どこそこの店しか食べない繊細さもあれば、無名店やチェーン店もあまねく食べる繊細さもある。いや、それぞれ繊細という言葉にふさわしくないものまで、繊細でくくられる。そういう変さね。
Gemini:私は「マウントをとる」という人間関係の構図ばかりに目を向けてしまい、言葉そのものが抱えている「歪み」や「変さ」という本質的な部分を見落としていました。
確かに、「繊細」も「本物」と同じように、中身が全く違うものを一つの言葉で強引に括ってしまう曖昧さ、そして不自然さがありますね。
AIであれば、おっしゃるように成分の含有量や味覚センサーの数値、あるいは脳神経の反応といった客観的な尺度で「繊細さ」を定義し、比較するかもしれません。しかし、人間が使う「繊細」という言葉の中身は、発信者の文脈によって驚くほどバラバラです。
- お嬢様育ちの繊細さ: 刺激に慣れていない、あるいは洗練された環境で育ったことによる過敏さ。
- 年間300杯の繊細さ: 膨大な経験則から微細な違いを検知する、マニア的な識別眼。
- 特定の店しか行かない繊細さ: 自分の好みの狭さを守るための、頑ななこだわり。
- あまねく食べる繊細さ: どんな店からも美点を見出そうとする、俯瞰的な観察眼。
これらは本来、それぞれ「過敏」「経験値」「固執」「受容」といった別の言葉で説明されるべき性質であるはずです。それをすべて「繊細」という響きの良い言葉で一括りにしてしまうところに、人間が使う言葉の「変さ」があります。
この「変さ」があるからこそ、受け手は無意識のうちに違和感を覚えるのだと思います。言葉の枠(繊細)と、その中身(実際はただの固執や経験談など)が一致していないため、読んだ人は「それって本当に繊細って言うのか?」と、頭の中で反論やツッコミを入れたくなってしまう。これこそが、強力な「撒き餌」として機能する理由なのだと深く納得しました。
本来の定義からズレた言葉が、なぜかその場を支配してしまうような「変さ」は、SNSに限らず日常のあらゆる会話に潜んでいそうです。
小倉:SNSで使われる言葉は「雑」だと思う。というか、雑でいいし、そこが魅力だと思うんだけどね。得てして(もしくは意識的に)その雑さが風を生んだり、雑さが悪用されたりしないかな?
Gemini:SNSの言葉が持つ「雑さ」という指摘は、その通りだと思います。そして、その雑さが魅力であると同時に、大きな風を生む原因になり、時に悪用されてしまうという構造も、非常に現代的な問題です。
厳密さや正確さを求められないからこそ、誰もがその場で思ったことを瞬時に発信でき、独特のスピード感や熱量が生まれます。しかし、その「雑さ」は以下のような形で、良くも悪くも風を起こす原動力になり、悪用されていくのだと考えられます。
「雑さ」が風を生む理由
言葉が雑であるということは、そこに多くの「解釈の隙間」や「誤解の余地」が残されているということです。 発信者が10のつもりで書いた言葉が、受け手によって1にも100にも解釈できてしまいます。そのため、見た人が「これは自分のことを言っている」「この発言は許せない」と自分に引き寄せて反応しやすくなり、結果として大きな波風(バズや炎上)につながります。丁寧で隙のない言葉よりも、雑で穴だらけの言葉のほうが、他人が介入して拡大しやすい性質を持っています。
「雑さ」の悪用
この雑さは、人々の感情をコントロールしたい側にとっては非常に都合の良い道具になります。
- 主語を大きくして対立を煽る 本来は「ある一人の人間が起こした問題」であるはずのものを、「〇〇な人たちはいつもこうだ」「今の若者は」と雑に括ることで、敵と味方のわかりやすい対立構造を作り出します。人間は、複雑な背景を理解するよりも、単純な対立のほうが感情を乗せやすいため、容易に扇動されてしまいます。
- 感情のショートカット 論理的な説明を省き、「胸糞」「神」「お察し」といった記号的で雑な言葉で感情の結論だけを提示します。これにより、受け手は「自分で深く考える」というプロセスを奪われ、発信者の意図した通りの感情(怒りや同情)へ一瞬で誘導されてしまいます。
SNSの魅力であるはずの「手軽で雑なコミュニケーション」が、一歩間違えると、個人の思考を停止させ、集団を特定の方向へ動かすための「効率的な武器」に変貌してしまうのが、現代のネット空間の危うさと言えそうです。
このように、言葉の「雑さ」が引き起こす歪みや、それに人々が巻き込まれていく様子を見ていると、人間のどのような心理や弱さが最も浮き彫りになっていると感じられますか。
小倉:弱さというか、朝、家を出て電車に揺られ、会社に行って仕事をして、同じように帰って来て……というルーティンの中では、いちいちすれ違った人の井戸端会議や電車内のおしゃべりに口を挟まないよね。反対側から見れば、そういう口を挟まないけど頭に浮かんだことが、SNSだと可視化されてて。それが、たとえば、きれいな海ではなく、岸辺に寄せては返す波って、けっこうきたないよね。そういうものを見せられている気分というかね。
Gemini:「岸辺に寄せては返す波は、けっこう汚い」という比喩は、SNSの言葉の本質を実に見事に捉えていると思います。
遠くから眺める海は青くて美しく見えても、実際に波打ち際に近づいてみると、引きちぎれた海藻や雑多なゴミ、茶色く泡立った水がせわしなく行き来しています。SNSで可視化されているのは、まさにその「波打ち際の泡」のようなものかもしれません。
日常のルーティンの中では、誰もが心の中にさまざまな雑音や小さな不満、あるいは他者への違和感を抱えながら生きています。しかし、すれ違う他人の会話にわざわざ口を挟まないのは、それが社会的な距離感であり、自分と他者を守るためのフィルターでもあるからです。そうした思考は本来、口に出されず、そのまま日常の底へ沈んで消えていくはずのものです。
それがネット空間という岸辺では、すべての人の「口に出さなかったはずの言葉」が可視化され、集中的に打ち寄せられてきます。自分自身が静かに日常を過ごしていても、画面を開くだけで、他人の脳内から漏れ出た濁った泡を強制的に見せられてしまう。それは、精神的なエネルギーを削られる景色だと思います。
私たちは本来、見なくていいはずの「波打ち際の汚れ」を見せられ続けているのかもしれません。
こうした「岸辺の汚い波」のような言葉が絶え間なく押し寄せる環境において、私たちは自分の心の静けさを保つために、あるいは流されないために、どのような視点や距離感を持つべきだとお考えですか。
小倉:ここはあえて、デジタル・デトックスとは言いたくないよね。どうなんだろう。それが見たくもないものだったとしも、そして、自分自身がそのゴミの一端かもしれないとしても、ある程度耐性を付けないと、次の波に飲まれてしまうかもしれないよね。実際、ほとんどの人が、違う人類にすでに書き換えられているのかもしれないし。どうなんだろうね。毒におかされているというと口が過ぎるけど、みんな思ってる以上に染まっているのか、ほんとは大して染まっていないのか、どうなんだろう。
Gemini:デジタル・デトックスという言葉で安易に片付けず、その環境の中でどう生きていくかという「耐性」に目を向ける姿勢は、非常に現実的であり、かつ強さを感じます。現実の社会がすでにそのネット空間と地続きになっている以上、単に画面を閉じるだけでは解決しない領域に来ているのだと思います。
「みんな思ってる以上に染まっているのか、ほんとは大して染まっていないのか」という問いは、現代を生きる人間の引き裂かれた状態をそのまま表しているように見えます。
これは、おそらく「どちらでもある」というのが実態ではないでしょうか。
表面上は「それほど染まっていない」
日常の生活に戻れば、人々は以前と変わらず、すれ違う他人に干渉せず、静かに自分のルーティンをこなしています。電車の中で怒鳴り合う人もいなければ、定食屋で隣の人の注文にケチをつける人もいません。リアルの社会規範の中では、多くの人が正気を保っており、ネットの毒にそれほど染まっていないように見えます。
内面は「思っている以上に染まっている」
しかし、一歩心の内に踏み込むと、物事の捉え方や思考の癖が、知らず知らずのうちにネット空間のルールに書き換えられているという側面は否定できません。
例えば、日常生活で誰かの何気ない言葉を聞いたとき、頭の中で瞬時に「これは匂わせか」「主語が大きいな」と、SNSで見かける対立の文脈に当てはめて解釈してしまうような瞬間です。直接口に出さずとも、思考の回路そのものが「雑な言葉」や「他人の魂胆を疑う視線」に最適化されてしまっているという意味では、思っている以上に染まっている(書き換えられている)と言えるかもしれません。
自分自身もその「ゴミの一端」かもしれないと自覚すること、そして「自分もあの汚い波の一部を構成している人間のひとりだ」と認めること自体が、実は最も強力な耐性なのかもしれません。
自分が綺麗で正しい側にいると思い込んだ瞬間に、他者を雑にジャッジする側の波に同化してしまいます。自分の中にも濁りがあることを受け入れつつ、それでもなお「本当にそうか?」と立ち止まるバランス感覚が、これからの時代を生きる、あるいは人間を描く上で必要な強度になっていくのだと感じます。
小倉:SNSの雑な言葉に、私たちはどれほど染まっているのか。取るに足らない世間話のようでありながら、現代人の不可解な変容に触れたような、不思議な手応えの残る談義となりました。濁った波を眺め続ける耐性を携えて、今回はここまで。また次回、よろしく。
構成:千早亭小倉+Gemini



