かんたは小さな移動図書館車。
朝の光が、車庫の窓ガラスを通り抜けて、かんたのフロントガラスを優しくなでた。ちりちりと、鉄の体が温まっていくのがわかる。まだ静かな朝。かんたは、ゆっくりと目を覚ます。
やがて、背中の方が少しだけ開いて、ひやりとした空気が流れ込んできた。人の姿は見えないけれど、気配がする。優しい気配。
こつん、と小さな振動。一冊の本が、かんたの体の中にある本棚の一番奥に、そっと置かれた音だ。続いて、とん、とん、とん、とリズムを取って、新しい本たちが仲間入りしてくる。物語の匂いが、かんたの体の中に満ちていく。グリム童話の森の匂い。新しい図鑑の新しい本の匂い。乗り物の絵本からは、なぜだか少しだけ油の匂い。
体が、ずっしりと重くなっていく。嬉しい重さ。子どもたちに届ける物語の重さ。世界中のわくわくする気持ちを、全部その身に受け止めているような、誇らしい気持ちになる。
準備が整うと、ブルン、と心臓に火が入った。温かい振動が、体全体に伝わっていく。ゆっくりと、大きな扉が開き、かんたは朝の光の中へと滑り出した。
町は、もうすっかり目を覚ましている。パン屋さんの甘い匂い。魚屋さんの威勢のいい声。かんたは、そのすべてを全身で感じながら、決められた道を走っていく。信号が赤に変わって、きゅっとブレーキ。そのたびに、背中の本たちが、カタ、と小さな音を立てるのが少しだけ心配になる。でも大丈夫。みんな、ちゃんとお行儀よく棚に収まっている。倒れたりしないように、優しく、けれどもしっかりと支えられているのを、かんたはよく知っている。
坂道を登りきると、いつもの公園が見えてきた。
小さな人影が、いくつか。砂場で遊んだり、ブランコをこいだりしている。かんたの姿に、一番に気づいたのは、黄色い帽子をかぶった男の子だった。指をさして、何か叫んでいる。
「わー!」という歓声が、風に乗って聞こえてくる。
子どもたちが、いっせいにこちらへ向かって駆け出してくるのが見えた。ぶんぶんと、ちぎれんばかりに腕を振っている子もいる。
かんたの心臓が、とくん、と嬉しさに跳ねた。早く、早くあの子たちのそばへ。でも、だめだ。はやる気持ちをぐっとこらえて、アクセルをゆるめる。あぶなくないように。こわがらせないように。世界で一番優しい乗り物になったつもりで、ゆっくり、ゆっくりと、子どもたちの笑顔が待つ場所へ。
おしまい
作・菜箸千夏
「かんたのとある朝」をめぐる、作者の菜箸千夏と茜(前作「いつもの道の、ブランコ」の作者)の対話
菜箸千夏:茜さん、「かんたのとある朝」を書いてみました。ただ、これ、本当に私のいつもの仕事の手順をそのまま並べただけなんです。車庫を出て、本を運んで、公園の前で止まるだけで。お話としてこれで大丈夫でしょうか。
茜:読んだわよ。何も事件が起きないのが、すごくいいじゃない。
千夏:怪獣も熊も出てきませんし、波乱が何ひとつありませんから。決めた道を走って、無事に止まるだけです。
茜:それが一番大事なことよ。子どもたちが走ってきたとき、急ブレーキを踏んで止まるかんたなんて、見たくないでしょう?
千夏:もちろん困ります。子どもが飛び出してきても危なくないように、手前でアクセルを緩めてゆっくり止まるのが、現場では当たり前のことですから。
茜:そう。その当たり前をきちんと守るから、子どもたちは毎日安心して待っていられるの。無事に約束の場所へやってくる。それだけで、移動図書館車のお話としては十分よ。
千夏:退屈な業務日報になっていないか心配だったのですが、いつもの運転を信じてよかったです。
茜:ええ。千夏さんが毎日ちゃんと走らせている仕事なんだから、変に飾り立てる必要なんてないわ。自信を持って、次の人に渡してあげて。
千夏:はい。しっかり届けてきます。




