「イーハトヴは一つの地名である」と始まる、宮沢賢治「『注文の多い料理店』新刊案内」に倣へば、ここあん村は一つの地名である。強ひて、その地点を求むるならば、それは、かつて若き芸術家たちが夢を追つたアトリエ長屋や、少女アリスが辿つた鏡の国と同じ世界の中、豊島、新宿、中野、練馬、板橋の境が淡く重なり合ふ境界の彼方、椎名町三丁目の西、ここあんの森より広がる処と考へられる。実にこれは著者の心象中に、このやうな状景をもつて実在したドリームランドとしての東京の境界域である。そこでは、あらゆることが可能である。人は一瞬にして湖畔のカフェの静寂に沈潜し水面を渡る風を従へて遠い思索へ旅する事もあれば、路地を行く移動図書館の白き窓辺で、ふと立ち止まる隣人と語ることもできる。傷痕や、「あのこと」の残したかなしみでさえそこでは金継ぎの繕ひのやうに聖くきれいにかがやいてゐる。深いここあんの森や、風や影、折れた塔や、不思議な古書店、ボストー区迄続く枕木の列、それはまことにあやしくもいとほしい小宇宙である。この物語の一列は実に作者の心象スケツチの一部である。それは日常のささやかな喜劇と哀歓のあわいから、喪失と再生を抱へて生きる人々の心に対する一つの文学としての形式をとつてゐる。

参考:宮沢賢治『注文の多い料理店』(角川文庫)


